【硬式野球】 黄金時代の名監督・五明公男氏 ロングインタビュー 前半
2014年 3月1日
法政大学多摩キャンパス
「怪物」と呼ばれた江川卓氏を擁し、リーグ戦4連覇。法政大学野球部の「黄金時代」と呼ばれていた時期に、五明公男氏は監督を務められていました。監督退官後も法政大学と深く関わり、最近まではスポーツ健康学部の教授でした。しかし、今年の3月でご退職されるとのことでこの取材を敢行。取材後、五明氏は大学教授として最後となる講義を、集まった大勢の同級生や教え子に向かって行いました。この度は春季リーグ戦開幕直前特集として、その取材の全貌を余すところなく掲載します。前半は学生時代、監督時代のお話を中心にお届け致します。
「我が人生に悔いなし」
―ネクタイは法政カラーを意識しているのですか
僕は法政のOBでもあるし、法政が関係する会合の時は法政カラーでいこうと極力思っています。「俺は法政だぞ」、「俺の身体には“オレンジの血”が流れているんだぞ」という意識が非常に強いのでそうしています。
―ご退職されるわけですが、今の心境はいかがですか
法政に奉職したのは27歳の時の監督だったんだよね。今70歳なので、43年間も法政大学にお世話になった。43年間仕事をさせてもらったんだけど、よく43年間も大学から給料をもらったと感謝しています。その43年間も含めて自分の人生は反省ばかりで、悔しいこともあったし、涙流した時もあるんだけど、そういうことを含めても、かっこよく言えば「我が人生に悔いなし」と思っています。「人生悔いなし」と言うとかっこいいんだけど、やっぱり悔いはあり反省は一杯ある。でも全体的に考えれば、普通に結婚して子供もできて、最後の退職の時にお祝いをしてもらうというこの様な幸せはないので、そういう意味では「人生悔いなし」と思います。法政大学に雇って頂いて本当に良かったなと思います。
―今までで1番の反省点というものは何ですか
監督時代の反省点ばかりで申し訳ないが、監督になりたての時に、私がベンチで「ピッチャーを交代したい」と思って、それでマウンドに行ったらキャッチャーが来て「五明監督、代えるのですか」と聞かれたので、「代えるぞ」と言ったら「監督、まだあのピッチャーで大丈夫です。だから代えない方が良いと思います」と言われた時に、自分としては代えた方がいいなと思っていたのに、結果的に代えなかったんだよね。妥協してしまったんだね。そういう決断というのは初めてだったので。結局、代えなかったためにホームランを打たれたのかな。それでその試合は負けた。僕としては自信ある判断だったのに、初めての監督として経験が無いし、その僕の代えなかった決断に悔いがある。もうひとつは監督になって4年目。得点が拮抗していた明治戦で、無死2塁でとあるバッターにバントのサインを出そうと呼んで「バントだぞ」と言ったら、「監督、打たせてください。絶対ランナーを3塁に送りますから」と言われたときに、決断が鈍り、そこで打たせて結局ランナーを進められずに結果、明治に負けたんだよね。それで明治に優勝を持ってかれたことがあった。要するに1年目、4年目で失敗しちゃったんだよね。それが悔いが残っていて、それ以後はすべて自分でピッチャー交代、サイン、選手交代は選手が何か言ってもここだけは自分を信じて決断しなければならないと。采配の上での悔いが残るのがあったので、監督としては悔いが残るという意味ですね。27歳でいきなり監督になったので、指導者としての経験が無かったんだよね。逆に指導者の経験が無い僕にOBからが法政大学の野球部の監督になぜ推薦されたのかその当時はわからなかった。よくそうやって監督に推薦してくれたなと思っています。僕は長野の実家が旅館だったから継ごうかなと思って経営学部に入った。けれど、教師に憧れちゃって。その後、法学部に学士入学した。経営学部だったから商業科の教員免許しか取れない。法政二高や普通の高校の監督になるには商業科の教員免許では駄目で、社会科の教員免許を取らなければならない。それで法学部に学士入学したら、友達が結構司法試験に挑戦しているから「俺もやれるんじゃないかな」と思って、もう1年間親父にお金を出してもらって3年間法学部に行かせてもらった。一応卒業して五反田にある清泉女子大学に職員としてバイトで入って、そこで司法試験の勉強をしていた時OBに「監督をやらないか」と言われ、「こんな素人の私に」と思ったんだけど、「OB会が君を推薦するんだ」からということで引き受けました。まさか自分が監督をやるとは思わなかったから最初は戸惑いがあったよね。そのマイナス面が1、4年目の采配に出ちゃったんだよ。最後の決断は自分の目と頭で決めないと悔いが残ると経験をしたので、それ以後はそういう采配せず自分の判断・決断を信じて指揮を執った。
「文武両道」の学生時代
―中学生の時に、なぜ法政二高に進学しようと思ったのですか
やっぱりスポーツは自分のためにやるのであって、自分のために最高の人間になって、最高のプレーヤーになる。そうなるには良い指導者に巡り合うことが大事。ただ待っていても駄目なので、良い指導者に自分から飛び込んでいかないといけないと思った。中学生の頃から、「甲子園に行きたい」と強く思っていた。そこで神奈川県や東京都を調べると、法政二高というのは強く常時甲子園に行っている。その高校の監督は田丸仁という人で、中学生なりに情報を集めると素晴らしい監督であると。そういうことで自分としては甲子園に行ける学校、そして素晴らしい監督がいる法政二高に行こうと門を叩いたんだよね。そしたらたまたま恩師の田丸仁という素晴らしい監督の他に、同級生に高校卒業して3人がプロに入り仲間にも恵まれた。その中の一人が柴田勲(元巨人)。良い監督・仲間に出会い、甲子園に行けて全国優勝できたというのは、夢が叶ったということだよね。だから自分で求めた監督がいたのが法政二高であったということだよね。
―五明さんはプロの世界へ進もうとお考えにならなかったのですか
僕はプロに入った柴田(元巨人)や是久(元東映)とか的場(元大洋)の3人とは全然力の差っていうか、僕なんかプロに行くような力がなかった。彼ら3人は体格も良くて技術も素晴らしいものを持っていて、僕は真面目にこつこつ叩き上げていくタイプで天才でも何でもなかったから、とてもプロでは通用しないと思った。自分は小学生時代から大学に入って、神宮の杜というか、神宮でプレーするという風に夢を持っていた。プロに行ったその3人はすごい選手だったと思う。同級生だったけど僕にしたら憧れの選手だったよ。僕が入部して野球部に行ったら柴田君は公式戦でいきなり投げていた。初めのうちは同級生だと思わなかった。筋肉隆々で本当にプロ野球選手というか、プロレスラーになってもいいような身体だったね。野球のために生まれてきたような選手だったと思う。それに比べて僕はひ弱で身長も低いですし、パワーも無いし。ただ本当に真面目にやっていた選手だったと自分で思います。
―高校時代の打順とポジションは
本当にレギュラーになったのは2年生の秋から2番でライト。2年生の夏に法政二高が全国優勝して、僕はその時ユニフォームは着てないんだけど柴田は着ていて優勝投手。全国優勝したピッチャーが3年春も投げて選抜大会でも優勝して、夏春連覇。その時のチームが「高校野球史上最強のチーム」だと言われたね。ただ三連覇が懸かった3年夏準決勝で怪童尾崎を擁する浪商に2対4で惜敗、偉業ならず。そうゆう中で僕は春の選抜大会の時に、バントをやる機会が7回あったのね。7回とも成功して、新聞に大きく「バントの神様 五明」と出たわけ。元巨人の川相(昌弘)とかいたでしょう。あの人が「バントの神様」って言われていると思うんだけど、自分が「元祖バントの神様」だと思っています(笑)。さっき言ったけど、自分で力が無いから何か自分で生かすものはないかと。部員がたくさん居たわけだし、1番多かった時は200人とか300人とか居たので、その中で自分が試合に出るためにどうしたらいいかと。「バントをさせるには五明だな」ということで2番に入れてもらった。でも選抜大会で11打数4安打かな、結構打てているんだけど、バントをたまたま100%だったので「バントの神様」と新聞に書いてもらいました。だから自分を生かすために、努力をしなければいけない。バントの練習は一杯やったよね。下級生が良くバント練習に協力してくれたな。
―大学時代はどのような学生生活を送っていましたか
学生時代は、それこそ今の学生に言いたいんだけど「文武両道」を実行。さっき言ったんだけど、僕はプロに行くような夢も無かったし、力も無かったし、できたら教師か社会人で野球を続けようと思っていた。けれど、うちの父が厳しかったので「大学の野球選手になっても、学生の本業を忘れるなよ。それは何だ。学問の修得だろ。学校に行かなければ駄目だ。それを疎かにするような選手は大学の選手ではない」ということで、経営学部の時、しっかりと単位は落とさないし、商業科の教員免許も取ったし授業も出たし練習もした。あの当時は午後から練習だったので、授業科目を午前中になるだけ取って、又雨が降って野球の練習が出来ない時は必ず授業に出る。晴れていればいつも午後はほとんど授業に出られないからね。だから極力雨の日や1、2時間目に出て先生に名前を覚えてもらったり、友達をつくってノートを貸してもらったりしてなんとか卒業ができたんで、そういう意味で自分なりに真面目にやってきたなと思いますね。だから野球も一緒懸命やったし、勉強もそれなりにやってきたと思う。それは父の影響で「学生の本業を忘れるな」と言われたのが頭にこびりついてる。今の学生には、「俺なんかオリンピック選手になれないよ」と思っている人は一杯いると思うんだよね。志をもってやれば世界チャンピオンにだってなれる。それには努力は必要で、1番良い例は東京六大学リーグの最多投手(48勝)の山中正竹。1メートル65センチぐらいしかないけど、あの人がなぜ六大学で48勝できたか。夢の実現のために並々ならぬ努力したからだよ。今の学生たちは「欲」がない。自分を冷静に「もう駄目だ」と判断してしまう。それじゃ駄目だ。夢を大きく持って、世界を見て、それを実現するには努力しかないんだけど、もっと大きな夢を持っていいんじゃないかな。野球部であれば、山中監督の時に大リーグにみんな挑戦していたよ。メジャーには行かれなかったけど、3AとかでG.G.佐藤(現千葉ロッテマリーンズ)も行ってるわけだし。他の部でもチャンスがあればどんどん留学などして、それを後に大学に還元すればいいわけだから。そういう夢を持って、どんどん行った方が良い。ソチオリンピックのスノーボードやスキーの選手とかは海外に行って、語学を勉強して競技しているではないか。やっぱり海外に行って対等に生活をして、対等に競技しないと勝てないよね。だから大きい希望を持ったら、日本を抜け出す以外無いんじゃないの。それくらい大きな夢を持って、それを結果的に法政・日本にカムバックして還元すればいいわけだから。何か夢を持てば、あとは我慢があれば世界に通用するんじゃないかな。誰にもチャンスがある。自己分析して、「俺は無理だ」とか自分を知り過ぎちゃうから。人間ってそうじゃない。何か急に生まれ変わる時があるでしょう。だからそういう点では自分をもっと大きく見せていいんじゃないかな。「俺はもっとできるんじゃないないかな」って。それにはやっぱり周りの支援者というか、ファンが必要だよね。自分が伸びていくには幾ら頑張ったって励ましてくれる人がいないと寂しいでしょう。大学で言えば運動部の選手だけじゃなくて、支援者は一般の学生であり、教員であり、地元の人、家族だね。僕が授業とかで言ってるのは、「みんな背中にファンをたくさん持ちなさい」と。ファンを持つためには人間性が優れていなければついて来てくれないよね。自分を磨いてファンをたくさん持つこと。大学内を歩いても「○○君、頑張ってね」とか言ってくれるためには、自分が授業に顔を出さなければいけないよね。そういう選手になってほしいなと思っている。ファンを背中にどれくらい持つかが自分の夢の実現に必要であると思っている。自分を応援したくなるような雰囲気にさせなきゃいけないね。
「怪物」と戦い抜いた監督時代
―監督時代の1番の思い出は何ですか
最初の監督になった時に、前の監督の松永怜一(野球博物館殿堂入り)という人が3連覇していて、法政大学としては初めて4連覇がかかっていて、プレッシャーだよね。3連覇してきたメンバーがほとんど残っていたわけだし。さっき言った悔いある采配はあったけれどけれど、4連覇できたというのはほっとしたね。それから2年間ぐらい監督として低迷して、監督4年目に江川卓が入ってくるんだよ。だから「法政8連覇間違いなし」なんて言われて、江川が入って来て、勝たなきゃならないというプレッシャーがあったね。結果的に8シーズンで5回優勝したんだけど、1番嬉しかったのは江川が3,4年生の4シーズン連続で優勝できたこと。東京六大学野球史上4連覇はいくつかあるんだけど、全部の大学から勝ち点(2勝)を奪って4連覇というのは無いんだよ。結果的にみると、江川の4年生の秋に優勝して4連覇という僕としては最高の状況だったと思う。だけどそのあと32歳だったんだけど、「監督続けますか」っていった時に、江川が来たこの4年間で精神的にも肉体的にもぼろぼろになってしまった。「あの江川がいて勝てなきゃ五明のせいだ」とずっと言われてきたからプレッシャーだよね。だからその江川君が卒業する時に燃え尽きたんだよね。良い思い出って言えば、最初の監督の優勝と、監督辞める時の4連覇は監督としては残っているよね。それと監督時代に六大学の監督さん同士でアメリカ野球事情の勉強や、球場、野球殿堂館見学に行く等の視察旅行があったんだ。30歳ぐらいだった僕から見ると、明治の島岡監督や早稲田の石井監督など有名な大監督がいました。その人たちと10日間ぐらい旅行したんです。その時に色々な会話の中から、大監督達はどういう指導をしたり、どの様な野球哲学を持っているのか等勉強させてもらったんで、最高のアメリカの視察旅行だったんだよね。その当時サンフランシスコ・ジャイアンツの球場はすでに人工芝だったんだよね。僕ら見てびっくりしましたね。こんな人工芝で足痛くならないのかなとか思ったけど、その当時から人工芝が当たり前にアメリカであったんだよね。今は膝を痛めるとかで天然芝に戻りつつあるけど、僕らが行った40年前はもう人工芝になっていたからね。そういうアメリカ野球勉強と大監督と寝食共にしながら旅行できた事は幸せだった。視察から帰って来て、勝てなかった島岡監督の明治に、その旅行中に色々と勉強させてもらって生活していくとやっぱり大監督も普通の人間なんだなって身近に感じるようになって、勝てるようになったんだよね。それは監督時代の良い思い出となったね。
―江川さんは当時、どのような学生でしたか
すごく人間的に真面目。授業への取り組み方も真摯で、野球の取り組み方も真摯。とにかく力がすごくあって抜きん出ていたね。あのような選手は二度と出てこないと思うけども、黙っていてもすごく目立つよね。彼はそういう人材でありながら目立つのが大嫌いだったんだよね。ただ内に秘めた闘志があるんだけど、その闘志をなかなか外に出さないタイプだったんだよね。だから勝ってもガッツポーズしないとか、完投勝利しても当たり前だ、と冷静な選手だったよね。もうひとつは、彼が例えば「山中監督の48勝を抜いてやるぞ」とかそういう意欲があればよかったんだけど、淡々としてたまたま47勝したわけで、そういうタイトルには無欲な選手だったね。ただ今僕が思うには同級生の柴田や浪商尾崎、最近で言えば野茂、松坂、田中とかと比べてもスピードやコントロールで江川の右に出る選手はいないと思うくらいずば抜けたピッチャー。彼自身もうひとつ凄いのは自分がピッチャーになって、「このバッターは何を狙っている」とか「こいつはここが弱いんだな」とかが天性的にわかる能力を持っていた。やっぱり凄い投手能力ものを持っていたんだろうな。それと彼は試合で負けると「これじゃいけない」と、一週間の練習はものすごくする。あとは、ただ人間的には大人しくて、後輩の面倒をしっかり見る。彼は高校時代もそうだったと思うけど、大学でも先輩から多少いじめられた思うよ。あれだけの選手でも、1年生江川が登板すれば今までエースとして投げていたピッチャーが出られなくなるわけだから、多少のいじめ・やっかみがあったろうと思う。そういうのが大学の時もあったみたいで、「俺が上級生になった時には絶対そういうことはしない」と後輩の面倒見はすごく良かった。それからもうひとつ彼には指導力がある。すごく野球を知っているし、統率力、リーダーシップ等そういう面の能力はあるよね。一時期、巨人軍の監督の話もあったよね。僕としてはどのチームでも良いから、監督のチャンスがあれば、是非やってほしいなと思う。なれば僕は良い監督になると思うね。彼には思いやりというのがあるので、良いと思うね。
―江川さんがドラフトにかかる時に監督を務められていましたが、その時のことについて
「空白の一日」は色々と考えたんだけど、スポーツマンシップという点から言うと正々堂々としてないよね。だからスポーツマンシップに反する、アマチュアとしては良くない。しかし、プロとして自分を生かす、金を儲けるという面から、彼は抜け道を探して、結果的には阪神小林投手と交換して巨人に行ったんだけど、プロという点から言うとしょうがないかなと思う。巨人に入団して自分を生かしたい。ただアマチュアという点からすると反するよね。だからマスコミから聞かれた時に「ちょっとスポーツマンシップに反しますね」と。ただプロという面から自分を生かすという点では色々と考えたんだろうな。やっぱりドラフト会議というものがあるんだから、平等・公平じゃなきゃいけないし、そのためのドラフト制度なんだからね。でも江川も良く考えた末の結論だったと思う。
―江川さんが法政の監督になるという可能性もありますよね
今は指導者、特に大学の監督もプロの経験者でもいいわけですからね。だからチャンスがあれば道は拓けていくでしょう。たださっき言ったように、そういった道が拓かれているけど「江川さん監督やってください」とみんなが迎えてくれないとその芽はないと思う。指導者というのは人間性だよね。技術は勿論必要だけど、その中で1番重要なのはやっぱり野球が好き、そして指導者としては選手が好き。大学生の監督としては学生が好き。野球を愛する気持ちと学生を愛する気持ちがあればいいんじゃないかな。江川君が監督になる条件としたら、法政が好き、野球が好き、学生が好きということになるのかな。それとこういう世界だから先輩を大事にし、先輩が好きということじゃないと。やっぱり人が好きということかな。「あの人に怒られるならしょうがないな」といくら怒られてもついていく。日大三高の小倉(全由)監督みたいにね、いくら怒られても選手はついていくわけですよ。それは普段からそういう付き合いして(全力で選手に接している)いるから。褒める時は褒めるし、けなす時はけなす。メリハリがしっかりできている。そして選手へ温かい気持ちがなければならない。小倉監督は良く勉強し真剣に生徒に接している。江川君にそういう温かさが出てくるかどうか。今はスポーツも文化です。野球から学ぶものは一杯あるわけよ。だから監督というのは教師なんだよね。野球をするだけじゃなくて人間教育をしないといけないわけだから。その中心の監督は勉強しなければならないよね。
―また監督の要請を受けたら引き受けられますか
僕は70歳で定年なのですが(笑)今も野球は大好きです。退官後は少年野球を指導して行きたいと思っているんです。チャンスがあって「野球を一緒にやってくれませんか」とかあれば是非コーチとして行きたい。それから私立高校はそれなりに良い指導者を呼んだり良い選手を連れてきているんだけど、公立高校はなかなか良い選手を連れて来たり、良い指導者は連れて来られない。原則的にスポーツ推薦枠で選手が取れない。しかし公立高校生でも、みんな甲子園に行きたいというのは選手の夢じゃないの。どこかの公立高校と縁ができれば、僕だけじゃなく野球を経験したおじさん達にも協力してもらい、今まで経験したものを、甲子園に行きたいと思う高校生達に役に立てたら良いなと思っています。地元の高校や中学校、少年野球も含めて要請があれば是非協力したいなと思っています。
(取材:川添岳、遠藤礼也)
後半に続きます
フォトギャラリー
- 監督時代の教え子・江川卓氏とのツーショット
- 法政二高時代の同期・柴田勲氏
- 法政二高時代の後輩・村上雅則氏