【硬式野球】山中正竹氏野球殿堂表彰式/インタビュー

硬式野球

【硬式野球】山中正竹氏野球殿堂表彰式/インタビュー

2016年5月28日(土)
神宮球場

※取材は3月17日、全日本野球協会にて行いました

神宮球場にて行われた早慶第1回戦開始前に、松本瀧蔵氏(明大OB)、本校OBの山中正竹氏の野球殿堂入り表彰式が行われた。山中氏は東京六大学リーグ史上最多の48勝を挙げ、現役引退後はバルセロナ五輪の日本代表監督として銅メダルを獲得。現在も野球界に携わり、競技の発展に尽力している。

表彰を受ける山中氏

山中正竹氏インタビュー

—野球殿堂入りを果たした今の心境をお聞かせください
子供の頃から好きな野球を始めて、もっと上手くなりたい、もっと勝てるようになりたいという思いを持って、子供の頃から進んでいくカテゴリーの中で上手くなるにはとずっと考えていた。そんな中で、例えば大学時代に48勝という記録が生まれたりだとか、社会人野球で選手として日本一になったりだとか、選手として社会人野球を勉強した後も、今度は指導者として社会人野球の日本一やオリンピックの代表監督になったり、大学に戻って大学選手権で日本一になったりだとか、上手くなりたい、勝ちたいという思いを私の野球のカテゴリーの中で追い続けていった。そして今、指導者を育てるだとか、日本の野球のかじ取りをして、みんなの進むべき方向を野球組織の中の人間として野球に関わり続けてきたのが私の人生。それを社会が評価してくれて、その評価が野球殿堂につながったということで大変ありがたいと思っています。ただ、これで私の野球が終わるわけではないので、これからさらに日本の野球の発展、世界の発展に力を尽くしていかなければいかんなという思いを強くしているところですね。

―野球が正式種目となったバルセロナ五輪での銅メダルなどの功績は大学時代の経験が生きているのでしょうか
私にとっての大学野球は非常に重要で、その先の野球人生の礎になっています。48勝という記録は、私の技術が優れていたということだけではなく、私より優秀な連中はいっぱいいたし、今の法政の連中を見たって優れている選手はいっぱいいると思います。ただ、色んな指導の力であったり、仲間の力であったり、そういうのでたまたま僕が48勝という記録になった。そのことに関して僕は誇りを感じているし、未だに大学の卒業からは48勝とともに生き続けているということが自分を励ましたり、鼓舞してくれます。大学時代や指導者の立場、もちろんバルセロナの代表監督にも大きな影響を与えてくれた重要なファクターであることは間違いない。それからもう一つ、大学時代のベースというのは一緒にやった仲間たちの多さ、私にとっての一番の財産は仲間の多さであり、信頼の深さ、思いの強さ、そういうものが自分の支えになっている。そういう人たちと一緒に何か考えたりということは、大学時代の自分の大きな財産であることは間違いない。

―法政大学入学前の六大学の印象はどのようなものですか
私は大分県の佐伯市という田舎で高校時代まで育った人間で、そこは小さな町なんだけど、文化度の高い、優れた人間が数多く出ています。そこで生まれ育って野球をやり続けた中で、そういう人たちに憧れ、追いつきたいという思いを持ちながら育ちました。東京六大学というのを意識したのは中学生の時。早慶6連戦というのがあって、私はそれをテレビで見ていました。秋の早慶戦で、私は中学の中間試験の時と被り、一週間くらい前からクラブ活動の禁止ということもあったので、試験勉強の合間に早慶戦を見ていました。そこで見た真っ黒な学生服の集団が神宮をいっぱいにしている姿が、私に神宮というところで野球をやりたいと思わせました。将来は1イニングでも良いから神宮に立ちたいなという目標や神宮への憧れが中学時代、高校時代に自分をモチベートさせた大きな要素ですね。

―最終的に法政大学を選ばれた理由は何だったのでしょうか
今と名称は違うかも分かりませんが、昔からスポーツ推薦入学制度のようなものはあったようです。私は田舎の高校生だったのでそういうことは何も知らなかったし、たまたま早稲田や明治からもお誘いは受けていましたが、当時は勉強もしなければなりませんでした。野球をしていたこともあり勉強は一般学生より少なかったです。そんな中で私の叔父が高校の教員をしていて、夏の大会が終わった後で「今の成績で早稲田に受かる学力はお前にはない。浪人をするのかどうなんだ」という質問をされました。一方で「一生懸命勉強すれば法政や明治には受かる」とも言われていたので、何カ月かの期間は一生懸命普通の高校生として学問に励みました。早稲田、明治の練習会のあと、最後に法政から練習参加要請のようなものが届きました。淡路島のグラウンドに全国の高校生を集めて、練習をするというものでした。そこに集まっていたのは、つい一週間まで夏の甲子園で活躍していた人たちばっかりで、こんな高校野球のヒーローたちと同じような野球ができるはずがないという気持ちを持っていました。実際に大学生になって物事が見ることができるようになれば怖気づくことはなかったんですが、その時はこんな憧れの人たちと野球ができるはずがないと思ってしまったんですね。そういう経験をして、改めて挑戦してみようと思った法政の練習会では、「どんな人が来たって絶対に俺は驚いたり、尻込みしたりしない」ということを自分に言い聞かせながら臨みました。ただ、それは当時の監督である松永怜一さんが私の高校の時の情報をちゃんと持っていて、現役の大学生とバッテリーを組ませてくれるだとか最初からかなり注目をしていてくれたし、「ぜひうちに来なさい」と野球部長や監督は、強く僕に法政入学を進めてくれた。そうして、僕は法政入学ということを決めたということですね。他の学校から試験だけでも良いから受けてくれというお話は受けていましたが、全て断りました。

―当時は左投手といえば内角勝負が相場の時代になぜ外角勝負にこだわったのでしょうか
左のピッチャーというのは右のバッターの胸元にズバッとストレートや、ひざ元に落ちていくカーブとかが典型的なピッチングパターン。これがないと左ピッチャーは務まらないという時代の中で、大学時代の連投で球威も落ちるなか、コントロールでいかにカバーするか、何を投げるかを考えた時に、そのコントロールされたボールを内側だけでなく、外側にも投げてストライクゾーンを目いっぱい使うのが私のピッチングになっていった。さらにその人の特徴を考えて、どこに投げればいいのかとか、内側に沈み込むボールがあればあの好打者であっても打たれないだろうとか、上手く使いつつ外側のボールを使うことを考え続けていったわけですね。

―『小さな大投手』として名を馳せた大学時代をどのように振り返りますか
48勝というのは相手が強くなければできない数字です。絶えず1勝1敗にならなければいけない。一戦目に私が投げて勝てば、次は江本(孟紀)とかが投げますが、江本のようなすごいボールを投げるピッチャーを相手が打つ力がないといけません。そこで、三戦目になって私が投げる、もしくは一戦目に負けると3連投も覚悟でやらなければいけない。それが当たり前のようにあった。そういう群雄割拠の六大学の中で48勝は生まれた。相手もまた山中を打つためにということを考えたり、努力したりしたわけです。チーム内はもちろんだけれど、他校との競い合い、ライバル関係があって、六校全員が高いレベルで高め合っていくという時代でした。そこが今、僕が外から見る六大学との決定的な違いです。ですから、おのずからチーム内の競争だけでなく、他のトップクラスの選手たちと競わなければならない。ピッチングとは何かといったようなところを考えたり、努力し続ける4年間であり、成長し続ける4年間であってほしい。考える人たちというのは、すごい勢いで進化していく。そういう人たちはプロ野球に行っても選手として活躍し、今に名を残しているわけですよ。

―48勝目を挙げたり、リリーフとして花道を飾ったりした明治戦は今でも感慨深いものがあるのでしょうか
48勝目というのは最後の明治戦の一戦目。そこで1つ勝って、もう1つ勝てば4年の秋も優勝ということで、2戦目は横山(晴久)というピッチャーが先発した。この選手も素晴らしいピッチャーで、明治を抑えて、別に僕を使うまでもなく投げていれば横山が胴上げ投手になるはずだったんですね。当時の松永監督は温情ということを最も嫌う人で、非常に厳格な指導をした松永という人が、たった一度だけ見せた温情采配でした。まもなく優勝が決まる法政の一塁側の学生席は総立ち、ピッチャー交代のアナウンスで一塁側のブルペンからマウンドへ、僕はその時あえて歩いていきました。それは歌舞伎の役者が花道を歩んでいくような光景であったわけですよ。学生たちは総立ちになって「山中、山中」と連呼してくれて、マウンドでは横山がボールを持って松永監督と待っていてくれました。その時に横山が「山中さん、4年生最後のマウンドです」と言って私にボールを渡してくれました。三塁側の明治の人たちまでもが一緒になって立ってくれて「山中ありがとう」という声援を送ってくれた。その時、僕は野球をやっていて良かったなと実感したんですよね。それくらいの熱い気持ちでした。そして、3人のバッターをアウトに仕留めて、みんなでマウンドに集まって、涙を流しながら優勝の瞬間を喜び合いました。ですから、非常に劇的で印象深い1イニングだったんです。1年生の春の時、昭和41年の4月23日が僕のデビューでした。やはり相手は同じ明治で、0対6で負けた試合の8回裏1イニングの敗戦処理でした。その小さな敗戦処理投手の小さなチャンスを僕はものにして48勝の勝ち星を重ねていって、感激の1イニングで終わったというのが、僕の大学野球でしたね。小さなチャンスが大きな記録につながっていく、そのチャンスはどこにでもあるんだと。それは今の学生、もちろん野球以外の学生にも監督時代などで僕の経験を通して伝えていった。神宮球場というのは学びの場でもあるんですよ。

―プロの世界へ行こうとは思わなかったのでしょうか
それは思いませんでした。私は、神宮球場で多く投げたいと思っていた人間で、プロへ行こうという意識はなかったです。だけど投げているうちに周りの人たちはヒーロー扱いしてくれるし、色んなところで大きく報じられると。そういう世界に自分は居たけれど、将来的には学校の先生にでもなって地元に戻るんだろうなと思っていたんですね。でも、企業野球というレベルの高いところに就職できるのであれば、野球をやれる間はやらせてもらって、その後は企業人になろうと。あるいは色んなところに学ぶ場がある中央都市の方がいいなと思って、社会人の道を早くから公言していました。春の早慶戦の前の週、住友金属の社長さんと面会をさせてもらって、内定をいただいて。翌日の一般紙には「山中、住金内定」と出されていましたから、秋のリーグ戦の後のドラフトは自分の事としての興味はなかったです。他の選手のことは気にしていましたけどね。

―山中氏の考える東京六大学野球とはどのようなものでしょうか
僕は大学スポーツというのは、各分野のスポーツのあらゆる面で高度なものでなければならないと。高度な場所というのは心技体もそうなんだけど、大学スポーツはそこに知がなければならない。それがないと大学スポーツの意味がない。みんなそれぞれ野球部に入るような人たちは技術的にも体力的にも優れているわけで、そこから先どこで競い合うかというと、プラス知なんですよ。知というのは、そんなに難しいものではない。あと1km/hでも早く投げるにはどうしたらいいかとかです。知識の追求であったり、分かった知識を自分の競技力に結びつけていくための積み重ねとかが、大学アスリートが求めるところだと思う。それがなければ、大学スポーツの意味がないと僕は考えています。ですから、そんな中でとりわけ歴史的にも大学野球をけん引してきた、日本の野球をリードしてきた東京六大学は絶えずそういう輝いた存在であり続けてほしいという我々の願望と、それを自覚した学生集団、そういうリーグであり続けてもらいたい。

―今年で創部101年目、新たな門出となる母校へのメッセージをお願いします
100年間の間に築かれた法政の素晴らしさというのもあり、数多くの先輩、優秀な人材も出してきた野球部です。新しい101年目から何を築き上げていくのか、法政に何をレガシィとして残していけるかということを毎年考えていけばいい。僕が一番望んでいることは、4年間のリーグ戦を終えて卒業するときに、「俺は4年間法政で野球を学び続けて良かったな」と大声で叫びたくなるような心境にさせるチームであってほしいと思っています。その時には、おのずから優勝もたくさんするであろうし、優秀なプレーヤーもいっぱい生まれているでしょう。そして、間違いなくこのチームが一番素晴らしいチームだったよねと評価される姿になっているはずです。指導者も同じで、心が選手たちとともにグラウンドになければいけない。一緒になってチームを作り上げていく、この指導力というのを今、僕は言い続けています。監督は勝敗にも大きく左右する重要な戦力です。だから、監督というのは、非常に重要な戦力であると。選手を勝つために育成することも含め、もっと野球を楽しくさせるためにはとか、その人に応じた教え方をしなければならないというところですね。我々の知る野球というのは本当に面白くて、難しくて、考える、こんな素晴らしい競技はないです。野球が他の競技と決定的に違う点は、監督が戦力になることと考える時間があることなんです。だから面白い。だから難しい。そういう野球を今大学生はやっている。大学生の野球は考える野球でなくてはならない、そういうチームができれば、今の低迷した状況は払拭できるでしょう。本当の常勝チーム、いいチームは卒業の時に良かったと思わせるチームにしなければならない。そういう法政になった時に、高校生があそこで野球がやりたいとか、あそこで野球を学びたいという求心力が生まれる。そして、そこで学んだ学生が法政で良かったと、それぞれの進路に進んだ後もそう思える。法政大学はそういう学校になれ、そういう野球人になれ、と。

(取材:原口大輝)

 

プロフィール

山中正竹(やまなか・まさたけ)
1947年4月24日生まれ。大分県出身。佐伯鶴城高から法大に入学。
通算48勝は東京六大学の最多勝記録。現役引退後、住友金属監督として
都市対抗、日本選手権を制覇。92年に開催されたバルセロナ五輪で
は日本代表監督として出場し、銅メダルを獲得。法大監督ではリー
グ優勝7回、95年には大学日本一に導く。現在は法友野球倶楽部会
長、全日本野球協会理事。

フォトギャラリー

  • 表彰を受ける山中氏
  • 森川大樹主将から花束を贈呈され笑顔を浮かべた
  • 山中氏と森川主将
  • 同時に表彰された松本瀧蔵氏の長男・満郎氏、明大主将・柳裕也らとともに記念撮影

 

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