【硬式野球】「4年生特集~惜別」第1回 金藤大喜、宮下礼
東京六大学野球秋季リーグ戦 対東大2回戦
2016年10月23日(日)
神宮球場
東大2回戦をもって4年生は引退。一枚岩で戦ってきた日々を終え、それぞれの進路へと進む。この4年間、彼らはどのような思いを胸に過ごしてきたのか。お話を伺った。
学生コーチコメント
金藤大喜
—今日の試合を振り返って
表現しにくいんですけど、今日勝って終わらなきゃ最低限の法政大学野球部の威厳が保たれないと思っていたので、今日勝って終われたのは良かったなと思います。
—4年間を振り返って
長かったというのもありますけど、正直言って後悔がめちゃくちゃ大きかったです。やっぱり自分で学生コーチと決めたんですけど、いざこういう状況になると選手でやれたんじゃないかなと思ったりします。学生コーチとしてやってきたことが成果として現れなかったというのもあって難しいなとも感じましたし、特にこの1年は後悔の多いシーズンになりました。
—3年生の秋までは選手としてプレーされていました
自分なりに真摯(しんし)に向き合ったというのは事実なんですけど、その中でも努力がすべてじゃなくて、人間性の部分だったり何事に対しても結果に貪欲にやっていかなければいけないなと思いました。法政大学野球部に足りないっていうところは泥臭さだったり執念深さだったりするので、そこだけは今後変えていかなきゃいけないと感じています。
—青木監督はどんな存在ですか
よく監督は家族とか言いますけど、僕は監督さんと一緒にやってきてパートナーだなと思っていました。言いたいことも言えましたし反論もしましたしいろんな話ができました。信頼できて一緒に戦っていけた人だと思っています。後輩たちもああいう監督さんについていけば失敗はないかなと思っています。
—監督に伝えたいこと
ありがとうという気持ちはほんとに伝えたいんですけど、やっぱり今結果が出てないからといって周りからいろいろ言われるかもしれません。でも、そこは信念を曲げずに監督のスタイルを貫き通してくれれば負けることはないと思います。ありのままの監督でいてほしいというのが本音ですね。
—同期の存在は
深すぎるんですよね。友達のようで友達じゃないし、一緒にいて1番落ち着けるというか、今の同期がいたからこそ僕のキャラクターがあるし僕が生きたと思うんですよ。感謝しきれない存在です。
—後輩に伝えたいこと
常に真摯(しんし)に向き合ってほしい。それだけですね。あと、おごることなく常に感謝できる人間であってほしいなと思います。
—野球人生を振り返って
正直苦労しかなかったです。病気になったり、けがをしたり。野球もやれないと言われていた状況で苦労も多かったですけど、そのなかで感謝の気持ちも学べました。何よりも人に支えてもらっているということを常に感じられた野球人生だったので、今後も人に対して真摯(しんし)に接して、誰からも好かれるような人になりたいなと思っています。
—応援してくださった方へ
勝てなくてほんとに申し訳なかったです。そのなかでも1番嬉しかったのは、いつも試合が終わったあとに「まだこれからもいけるよ」とか「がんばれ」という声援が支えになったのは事実です。法政大学野球部っていうのは選手だけでやるものじゃないので、ファンの方々やOBの方々があってこその野球部だと思います。法政の声援が1番熱いと僕は思っているので、これからも温かい声援をよろしくお願いいたします。
宮下礼 学生コーチ
—4年間を振り返って
僕はマネージャーとして入部させていただきまして。2年の冬、青木助監督が監督になられたときに「お前が学生コーチになって先頭に立ってやってもらえればチームも強くなるから、どうだ」と言っていただいて。だいぶ悩んで3年の春に学生コーチに切り替わりました。2年までのマネージャーの仕事はほとんど雑用で、チームの裏方としていろいろなことをやっていたんですけど「裏方って、すごく大切な役割りなんだな」と。スポットライトを当てられないなかで、掃除しかり、洗濯しかりをずっと継続してやって、寝る時間も3~4時間というなかで毎日を過ごしました。精神的には強くなったかなと思っています。学生コーチになったわけですけど、仙台育英高校のときからチームの先頭に立って練習をしきったり、監督と選手のパイプ役になったりをしていて。そういった経験をしてからだったのですごくやりやすかったです。マネージャーのときは右も左もわからない状態でやっていたんですけど、学生コーチになってからは要領がわかっていた分、スムーズにいったかなとは思います。同期にも恵まれてみんなついて来てくれて。野球以外でも仲間の大切さというものを知った4年間でした。
—学生コーチは、高校と似ているとはいえ違う部分もあったのでは
そうですね。高校の監督さんは「これをやれ」と言って、それをみんなに指示するだけでした。大学では僕を含めた学生コーチで話し合って「今日はこういう練習をしたほうが良いんじゃないですか」といったメニューの提案をしたり「この選手はここで使ったらどうですか」といったポジションの案も出したので、すごく頭を使ったなと。そこは難しかったですね。
—育英はSSKといった、決まった練習がありますね
あれ作ったの、僕です(笑)。
—そうだったんですか
(S)鋭い(S)スイングを(K)極める。5秒間に1回スイングするやつです。その伝統を今でも引き継いでくれています。
—コーチ転向は、だいぶ悩まれたとのことですが
実は青木監督が助監督として来たときから、お話はあったんです。「お前、なんでここ(マネージャー)にいるんだよ」と。青木監督がもともと富士大学の監督だったので、仙台育英の練習も見に来られていたみたいで。最初に「マネージャーです。よろしくお願いします」と言ったときに、「知ってるよ。育英だろ?なんでお前マネージャーなんだ?」と。そこから始まりましたね。「お前がノックできるのも知っているし、みんなに声をかけることができるのも知っている。不思議でたまらない」と。本当に転向するかとなったのは14年の12月ですね。やると決めたのは3月です。でも3月中は「マネージャー兼学生コーチ」という形でやっていたんですよ。正直、マネージャーの業務もやりたかったですし、いろいろな人と関わりたかったのでやりたかったんですけど、今村さん(健太郎=H27卒マネージャー)に「両立は無理だよ。どっちかに絞りな」と。でも僕は「両方できます」と言って、結構揉めました。なので、完全に決めたのは4月です。3月中は練習が終わったらマネ室に入って対応してということをやっていましたね。
—育英ではマネージャーのような役割は
あります。僕はグラウンドマネージャーというのをやっていて、クラブマネージャーというのが別に2名いました。僕の同期は一人は普通に専修大学に行って、もう一人は東洋大学でマネージャーをやっています。
—最後の挨拶では、噛み締めるような表情をしていらっしゃいました
すごくお客さんが多くて。もちろん、明治と立教のお客さんも含めてだと思うんですけど、すごい観客席がいっぱいで。いろいろな方に応援していただいているなということと、誰もが言うと思うんですけど「ああ、終わったな」と。まだ新人戦は残っているんですけど、リーグ戦、4年生と一緒にやるのは最後だなと。結構きました。
—最終戦、森川大樹主将の出場機会がありませんでした
僕だけではなくスタンドにいる全員が「最後、(森川)出てくれなかったな」と思っていたと思います。もちろん米田(伸太郎)や木村(昴平)とかもいるんですけど。「森川で締めるのかな」と僕は思っていました。監督がすべてなので何も言えないですけど、そこは正直、最後の雄姿は心の底から見たかったなと思います。森川が一番苦労しているので。
—応援団の方々とお話をしていらっしゃいましたが
「ありがとう」と「ごめんな」というのは、全員言っていました。申し訳ないなという思いが8割です。一度も優勝できなくて、なおかつ最後のリーグ戦は勝ち点1しか取れていない。でも、感謝の気持ちも伝えました。「いつもありがとう」という思いは伝えました。
—後輩への思い
僕たちが101年目で、4年間優勝しない学年というのはいないと思うんですよ。本当に申し訳なかったなと。後輩たちには青木監督の方針が「練習はうそをつなかい」なので、とにかく練習、練習でやってほしいなと思います。監督が変わって体制が変わると、指導者によっていろいろ変えていかないといけない部分もあるので、とにかく練習を積んでいただきたいと思っています。
—新人戦に向けて
新人戦は絶対に優勝したいです。たかが新人戦と言えど、優勝して終わりたいなと。リーグ戦も新人戦も含めて優勝が一度もないので、せめて新人戦だけでも。恐らく新人監督をやらせていただくと思いますが、赤木と一緒になってやりたいなと思います。
プレーバック
金藤大喜
「正直言って後悔がめちゃくちゃ大きいです」。誰よりも熱い男は、こう4年間を振り返った。
3年秋までは選手としてプレー。代打の切り札としてチームを盛り立てれば、ベンチでは仲間を鼓舞することに徹した。声が枯れても何のその。オレンジ色のメガホンがよく似合うムードメーカーは、その明るい人柄と全力プレーで多くのファンに愛された。そして昨秋のリーグ戦後、チームの勝ちを最優先にと学生コーチへの転向を自ら決意。新たなスタートを切った。
ラストイヤー。それは悩み抜いた1年だった。学生コーチとしての成果が思うように出ず「まだ選手としてやれたのでは」と思うこともあった。声だけでは限界があると感じ、声の中にある人間性、人としての土台まで試行錯誤した。ラストシーズンは決して完全燃焼の秋とは言えなかったかもしれない。それでも、「いいパートナー」と慕う青木監督の右腕として、声と心で確かにチームを引っ張り続けた4度目の秋だった。
「法政で優勝がしたくてここに入った」。幼いころからの夢はかなわなかった。それでも、「法政大学野球部に入ってよかった」と締めくくった金藤大。あふれる悔しさは、それだけ懸けた思いが強かった証。苦しかった野球人生があったから強くなれた。その背中が物語っている。 (下河辺果歩)
宮下礼
コーチャーズボックスへ駆け足で来ると、ラインをなぞるように歩く。ヘルメットを取り、グラウンドへ一礼。オープン戦でさえ欠かさなかったこのルーティンを覚えている人は、多いのではないだろうか。
宮下が学生コーチを始めたのは昨年4月。それ以前はマネージャーだった。「精神的に強くなったかな」と振り返るように、睡眠時間を削りながら掃除や洗濯をこなすなど、雑用がほとんどの毎日だったが、マネージャーをやめる気はなかった。その思いは青木監督にコーチ転向の話を持ちかけられてからもなかなか変わらず。それでも4ヶ月間悩み抜いた末、学生コーチに転向した。
仙台育英高では、学生コーチに匹敵する「グラウンドコーチ(GM)」を務め、甲子園出場に貢献。5秒に一度スイングをする、知る人ぞ知る「SSK」の考案者でもある。それだけの経験と頭脳をもってしても、法大の学生コーチは苦労が絶えなかったという。
そんな中でも、チームの勝利のためにノックを打ち、腕を回し、声を張り続けた。走者がクロスプレーでアウトになれば、選手よりも申し訳なさそうな顔をしてベンチへ戻り、セーフになれば大きな拍手をしてチームを盛り立てた。熱い男だ。
リーグ戦では優勝できなかったが、「優勝」への道は1つだけ残っている。宮下が新人監督として、新人戦制覇へ挑む。 (伊藤華子)
プロフィール
金藤大喜(かねとう・ひろき)
キャリアデザイン学部4年
1994年9月23日生まれ
千葉出身・西武台千葉
168cm72kg 右投左打
宮下礼(みやした・れい)
キャリアデザイン学部4年
1994年4月19日生まれ
千葉出身・仙台育英
168cm73kg 右投両打
フォトギャラリー
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