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【野球部創部100周年記念インタビュー】稲葉篤紀~“全力疾走”の野球人生(前編)

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【野球部創部100周年記念インタビュー】稲葉篤紀~“全力疾走”の野球人生(前編)

2015年11月25日(水)
ザ・プリンス パークタワー東京

1915年創部の法大野球部は、2015年に創部100周年を迎えました。スポーツ法政新聞会ではそれを記念し、法大出身でプロでも2000本安打の偉業を達成するなど活躍された稲葉篤紀氏にお話を伺いました。前編ではプロでの活躍、引退後の活動についてを中心にお届けいたします。

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自身の代名詞である”全力疾走”を掲げた

世界一への挑戦

―先日まで「世界野球WBSCプレミア12」にて侍ジャパンの打撃コーチを務められました
世界一になることの難しさを感じましたね。初めての大会でしたし、他チームのデータも少ない中でやらなければいけませんでした。僕は打撃コーチだったので、そういった(データの少ない)投手への対策を立てるのは非常に難しくて。見ている方からは「格下だから打てるだろう、勝てるだろう」と言われることもありましたが、やはり負けてはいけない試合の中での独特の緊張感やプレッシャーもあります。そんな状況で格下の投手から打てるか、と言われればそうではないと思いますし、勝つということの難しさを思い知らされました。結果的には(準決勝・韓国戦での)1敗しかしていないんですが、この1敗の悔しさというものを思い知らされました。

―現役時代にも数々の国際試合を経験され、2009年のワールド・ベースボール・クラシックでは世界一にもなられましたが、選手・コーチという立場の違いは感じましたか
全然違いますね。プレーヤーは自分のプレーをしっかりやればいいと思います。コーチというものは勝たせてあげなければいけない立場なので、自分がというよりも選手に気持ちよくやってもらうことだとか、調子の悪い選手をどう上げていくか、相手投手をどう打っていくかといったことを常に考えなければいけません。すごく頭を使いました。

―現在は解説者としても活躍されていますが、その経験はコーチ業にも生かされたでしょうか
シーズン中にいろんな話をさせてもらった選手もいましたし、インタビューに答えてもらった選手もいました。それぞれの打撃論を語ってくれるので、それを踏まえて調子を落としたときにどうしてあげればいいかといったことなどは、取材を通していろんな参考になりました。

 

“全力疾走”で駆け抜けた現役生活

―現在も北海道に拠点を置かれて活動されていますが、北海道はどのような場所でしょうか
とにかく自然が素晴らしいですよね。ちょっと山に行けば動物がいますし、海も近く食べ物もおいしいということで非常に魅力のある場所ですよ。

―2005年の北海道日本ハムファイターズへの移籍が、ご自身にとって大きな転機になったと思われます
僕はフリーエージェント(FA)というものを使ってファイターズに入れさせていただいたんですけど、FAというものはすごく難しいものです。よく勘違いされてしまうのは「お金で動くのか」といったことを言われがちなんですが、実はそうではないんですよね。FAは自分がやってきて得た権利といいますか。野球選手はほとんどの進路は自分で決められるものではなく、人に決められてしまいます。ドラフトもそうですが、自分の行きたいと思う球団にはなかなか行けません。FAは一定期間頑張って、自分がどこにでも行けるという権利です。そこでいろんな評価を聞いてみたいということもあると思います。僕はアメリカに行きたいということでFA宣言をして、結果的にファイターズに行くことになりました。野球界にはトレードやFAといったものがありますが、人ってどこでどう変わるか分からないなと。一球団で引退するまでプレーするということもとても大事だと思いますが、僕は移籍を経験したことで人のつながりの輪が広がりましたし、また北海道という場所に住んで魅力を感じたりだとか。僕は今の選手たちにも「(移籍は)いいものだよ」ということを伝えているんですよね。非常にいい転機になると思います。

―日本ハム時代は「稲葉ジャンプ」が有名でしたが、打席で味わっていた当時のお気持ちは
やはり後押ししてくれるものでしたね。調子が悪くても打てそうな雰囲気にしてくれましたし、本当に強烈な後押しをしてくれた応援だったと思います。相手チームも「なんか雰囲気が変わる」と嫌がっていました。12球団を探してもああいう応援をしてもらっている選手は少ないと思いますので、非常にありがたかったですね。

―2000本安打を達成されましたが、特に記憶に残る1本はありますか
印象に残るヒット、ホームランはたくさんありますね。でもやはりプロ初打席初ホームラン(1995年6月21日・広島東洋カープ戦)。この1本がなければ2000本もないということで、僕のプロ生活の始まりの一打だと思っています。今でも自分の中で印象に残っているシーンですね。

―”全力疾走”という言葉がご自身の代名詞にもなっています
小さいころから誰もが「全力疾走をしなさい」という言葉は掛けられていたと思います。僕はもともと攻守交替の時に気持ちよく走っていくというスタイルを評価していただいて、「全力疾走」という言葉を皆さんに言っていただけるようになったんですけどね。理由といえば、一つは気持ちの切り替えです。守りにいく、攻撃にいくという切り替えが大事で、あれをやることによって結構うまく気持ちを切り替えることができました。もう一つは体力的なものです。毎日試合をやっているとダッシュやランニングの量が減ってしまいますので、それを補っていこうと。そういったことを込めながら僕はやっていたんですけど、それがこの言葉につながっていってくれました。

 

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引退後の活動

―現在は日本ハムのスポーツ・コミュニティ・オフィサーという役職に就かれていますが、どのような活動をされているのでしょうか
スポーツコミュニティということを球団の理念として掲げていまして、これは何かというと、スポーツ全体を通じて地域とのつながりをつくっていくということです。北海道民の皆さんにスポーツを通じて元気になってもらいたいと。いろんなスポーツを応援しに行ったり、トークショーをやらせてもらってスポーツの良さを伝えたりだとかという活動をさせていただいています。今は野球の競技者人口がすごく減っていて、増やしたいという思いがありまして、まずはスポーツをやってみましょうというところから入るんですけど。つい先日は幼稚園の子供たちに、野球を始めるきっかけとしてまずはボールで少し遊んでみたり、コーンの上に置いたボールを打ってみたり、とかね。小さい子供たちにも野球というものを知ってもらおうということで、非常に喜んでやってくれましたね。楽しかったですよ。

―解説者として、現役時代とは野球への見方は変わりましたか
変わりましたね。もともと僕は外野手だったんですけど、上から見るようになってポジショニングであったり、内野手の一つ一つの動きであったり、そういったものを感じるようになりましたね。野球というものは奥が深いです。選手としてやっているときはグラウンドレベルで自分のことで精いっぱい。周りのことを見ようとしてもそんなに大して見れていなかったんですけど、上から見ていると選手一人一人の動きや態度だったり、いろんなことが目に付くので「自分は(現役時代)どういうふうに映っていたんだろう」と気になりましたね。非常にそういう細かい部分が見られて、すごく勉強になっていますね。

(取材:遠藤礼也)

※後編では大学時代の思い出などについてお伺いしております。ご期待ください。

 

プロフィール

稲葉篤紀(いなば・あつのり)
1972年8月3日生まれ。愛知県出身。中京高(現・中京大中京高)から法大に入学。ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団し、2005年には北海道日本ハムファイターズへFA移籍。2012年には史上39人目となる2000本安打を達成した。引退後は侍ジャパンの打撃コーチや解説者として活躍。
東京六大学リーグ通算88試合出場、打率.280、6本塁打、50打点

 

フォトギャラリー

  • 1自身の代名詞である”全力疾走”を掲げた
  • 2プロ生活を振り返った
 

 

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