【フェンシング】東京五輪男子エペ団体金メダリスト フェンシング部OB見延和靖選手独占インタビュー

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【フェンシング】東京五輪男子エペ団体金メダリスト フェンシング部OB見延和靖選手独占インタビュー

2021年11月1日(月)
法政大学市ヶ谷キャンパス

7月23日から8月8日にかけて開催された東京2020オリンピック競技大会。弊会は7月30日に行われた男子エペで日本フェンシング史上初の金メダル獲得に貢献した見延和靖選手(平22年度卒=NEXUS)に取材を敢行。コロナ禍の中で成し遂げた快挙についてのお話などを伺った。

東京五輪でフェンシング史上初の金メダルを獲得した見延選手

インタビュー全文

ー東京五輪を振り返って
今回僕がオリンピックに出るのは2回目で、前回のオリンピックとはぜんぜん違うものに感じました。コロナということもありましたが、自国開催だったということで、そこが一番違う点でしたね。スタッフさんも全員日本人で、日本語で話していて、食事も日本の味に近いものでした。何よりも放送の時間もいろいろな人に見てもらえる時間だったので、それが自国開催の良さだなと思いました。やっぱり応援してもらえるということで、それがすごく力になりました。

ー自国開催ということで練習環境などでもアドバンテージなどは感じましたか
他の国の選手たちはもっと制限をかけられていたので、そこの点ではアドバンテージだったなと感じます。

ー個人戦では悔しい結果となりましたが、団体戦ではどのような気持ちで臨みましたか
もともと一番は団体戦だと思っていました。それは前回のリオが終わった時から5年間ずっと言い続けていましたし、思い描き続けてきたところでした。そこで団体戦への思いが揺らぐことはなかったです。とはいえ、今回のエペのチームは全員がエース級で、誰が出てもメダルを獲ってもおかしくないメンバーでした。その点で僕も含めて個人戦で1人もメダルに手が届かなかったというのは悔しかったです。ただ、それもまた何か日本でやったことがプラスに働いたことがあると思います。普段だったら個人戦が終わって団体戦にそのまま臨むことになりますが、一回、ナショナルトレーニングセンターで今まで一緒に戦ってきた他の選手たちに会って練習することで、その人たちの思いを背負ってプレーすることができました。それが僕たちに「やっぱり団体戦だよね」という気持ちにさせてくれましたし、個人戦から立て直す力になりました。

ー団体戦では1回戦で交代となりながらも、必死に声援を送っていらっしゃいました
やっぱり団体戦というのは出場する3人だけではなく、リザーブ、コーチ、スタッフ全員で一つにならないといけないということを、一番団体戦を経験している僕が分かっていることでした。なので、リザーブに回っても関係なくその姿を僕が示さないといけないと思っていましたし、もう試合に出れないとなっても一番闘争心を剥き出しにしてチームを鼓舞していこうと思いましたね。

ー金メダルを獲得した時の率直な気持ちは
「獲る、獲る」といくら言っていても、実際に獲った時はなかなかその瞬間は実感がわきませんでした。本当にオリンピックなんだろうかという気持ちでした。チームの中でも「これ夢じゃないんでしょうか」みたいな話をしていてふわふわしていました。描き続けてきた夢が、本当の夢みたいになっちゃいました。自国でみんなが「おめでとう」と言ってくれる中で実感がわいてきましたね。本当に、徐々に、徐々にわいてきたという感じですね。

ーエペは、以前から見延選手がご活躍されていた中ではありましたが、なかなか世界で勝つことができないという声もありました
一番日本人が勝てない種目とずっと言われてましたからね。僕はそんなことないと思っていましたけど、それは僕がどうというよりも、一つずつチャレンジをして、失敗しながら成功をしてきた先輩たちがいるから(金メダルを獲れた)と思いますね。その先輩たちが失敗をしながら小さい成功を積み重ねてきたから僕たちがいると思います。僕たちがそれを一つ進めることができたという形だと思っています。

ーコロナ禍での五輪でした
一時はどうなることかという思いでした。延期が決定して、「本当にやれるのかな」と思う部分もありました。アスリートでありながらも「オリンピックをやりたい」と口にするのもなかなかできない状況でした。ただ、開会式に参加した時に、やっぱり観客こそいませんでしたけど、キャストの皆さんとかがいたり、運営されている方々がいらっしゃって、いろいろな人の思いの上に成り立っているものなんだと実感しました。その思いの中心にいるのが僕らアスリートなので、迷っている場合じゃないと思いましたし、開催のために尽力してくれた人たちのためにも僕たちが精一杯汗を流さなくてはいけないと思いました。いろいろな意見がありましたけど、僕としてはやってもらって本当に感謝していますし、やってもらってありがたかったと思います。

ー延期が決まった1年間はどのように過ごされていましたか
やっぱり大変でした。特に僕らは対人競技ですから、面と向かって練習することができなくなってしまったのがすごく厳しかったです。また、「何よりも団体戦で」と言っている中で、チームで集まれないのは心が離れていくような気もしました。その時はすごく苦しかったです。その中でも練習をする時はしっかりと検査をして地方での合宿を組んだり、出来るだけチームと一緒にいる時間、剣を握っていられる時間を確保できるように試行錯誤していました。すごく苦しいし、100%の練習ができたかと言われたらそうではなかったかとも思います。それでも何かできるように工夫や努力をして(五輪に)臨みました。

ー苦しい中だったとは思いますが、主将としてチームをどのようにまとめあげましたか
まとめあげるとかそういう言葉ではなくて、僕の場合は個人の個性を認める、引き出してあげるとこかなと思っています。一見すると、その人にとってはちょっと苦手な部分だったりするのかなとは思う部分も、それも見方や考え方を変えるだけで一つの良さになって、チームのプラスになることがすごく多いです。なので、チームにとってプラスになるようなものの見方などを引き出してあげるというか、気づかせてあげる空気作りをしていましたね。僕が引っ張るというよりはそういう空気を作るようにしていました。それが(合言葉でもあった)「エペジーーン」ですね。

ー五輪後はNexusから1億円の報奨金を受け取られましたが使い道などは
君らもそれ聞くんやね(笑)。やっぱりフェンシングはなかなかお金が稼げないので、自分の練習環境が良くなるようなことに使っていきたいとは思っていますけど、具体的なところは考えていないです。とはいっても僕一人で獲った金メダルではないので、チームに還元したいと思っています。みんなで力を合わせて獲った金メダルなので、形に残るものとしておそろいのジャケット(革ジャン)をそろえようかという話をして今動いています。

ー「なかなかお金が稼げない」という話がありましたが、そういった中で今回の報奨金はフェンシング界に夢を持たせるものだったように感じます
フェンシングのみならず、マイナースポーツ界にとっても夢のあるニュースになったのかなとも思います。だからこそ、それを無駄遣いするのではなくて、自分のためになるような使い方をして示せていけたらなとも思うんですよね。

ーフェンシングの中でもエペの魅力とは
僕がもともと空手をやっていたというのもありますが、ルールがすごく分かりやすいことですね。エペなら両方が突けば両方のポイントになって分かりやすいので、見ている人も分かりやすいですよね。だからこそ、一瞬の駆け引きの多さだったりがエペの魅力かなと思いますね。

ー現在は日本ではフルーレから始めることが多いですよね
僕もそうでしたし、フルーレはエペの練習用に開発されたなんてこともありますしね。子どもがエペ剣を扱うのは重たいですので、フルーレ剣を扱うのは良いことだと思います。フルーレで剣の細かい扱い方を学ぶことは絶対に他種目でも生きてきますし、そこから入るのは間違いないと思いますね。

ー現在のインターハイでは団体戦の種目はフルーレだけとなっていますが
そうですよね。その点は昔から僕はエペがやりたいなと思っていました。だから先生が休みの日とかにエペの剣を持ってきて、エペをやったりはしてました。だから高体連の方でエペ、サーブルの団体戦があればいいなと思いますね。やっぱりきっとそういう思いの子たちはいっぱいいると思うので、そういう子たちのためにも試合が増えると良いなと思いますね。

ーフェンシングに興味を持ちはじめた人に言葉をかけるとすれば
大人でも子どもでもやってほしいなとまずは思います。フェンシングは生涯スポーツだし、僕も高校から始めて社会人になって芽が出たというか、代表に入ったので、どこから始めてやる気さえあれば結果の出るスポーツだと思います。なので、ベテランの試合とかもあるので、大人の人もチャレンジしてほしいなと思いますね。


ーフェンシングを始めたきっかけは

父親がフェンシングをやっていたということと、法政大学に入るためです。高校の時、スポーツで進学をしようと思って始めたのがきっかけですね。「東京の大学に行きたい」という話をした時に、僕のいた高校からフェンシングで法政大学に行った先輩がいて、そんな道があるんだなと思って始めましたね。

ー法政大学に行きたかった理由は
福井でも名の通った大学でしたし、両親も有名大学に行くことを望んでいましたからね(笑)。

ー入学後は、強者ぞろいの高いレベルの中で周りから受ける刺激などは
めちゃくちゃ強かったですからね。僕らがいた時はスーパースターだらけでした。ただ、そこで埋もれてなるものか、という思いは強かったです。当時はそこまで高いモチベーションを持って臨んでいませんでしたが、自然と意識の高い選手といることで自分も高いところをどんどん目指すようになっていきました。

ー大学時代に一番印象に残っていることは
やっぱり最後の試合かな。リーグ戦、関カレ、インカレ、全日本などで全部法政大学が団体戦で制覇したのが僕らの代で、五大会制覇というのをしました。その最後の全日本で斎田守(監督)さんが流した涙というのが、今でも忘れられないですね。

ーフルーレの推薦で入学をされた中でエペに転向した理由は
大学に行ったらエペをやろうとはずっと思っていました。ただ、フルーレで入ったので、最初はフルーレもやっていました。今は違いますけど、当時はフルーレの延長線上でエペをやることもあったので、フルーレの技術もプラスになることがあったのかなと自分では考えていました。

ー大学卒業後はフェンシングを辞めることも考えていたとのことですが
まずは大学に入ったら辞めようと考えていました(笑)。ただ、強い仲間たちに刺激されて、高みを目指すようになりました。卒業する時も、フェンシングを辞めて社会人として働く選択肢も当然あったので迷っていました。1年間フェンシングをやってみて決めようというところで思いとどまってやることに決めました。

ーフェンシング人生の中での転機は
いっぱいありますけど、大学で最後、全日本団体に勝った時ですかね。自分の師匠で、北京オリンピックの代表である西田祥吾さんと団体戦で戦って逆転勝ちした時はすごく自信になりました。良い意味であの人を超えられたと錯覚できました。オリンピックに出たあの人に勝てたなら、僕にもチャンスはあるかもしれないと思うようになりました。そういう気持ちにさせてくれたので、大きなポイントになったのかなと思います。

ー卒業後は法大との関わりは
最初のうちは合宿の方にもしょっちゅう来ていました。良い練習環境もそろっていたので、それを求めて法政の方には来ていましたね。最近は法政大学に行くというよりは、選手が僕たちのところに来て、一緒に練習するという形ですね。

ー見延選手自身が大学4年間で一番変わったところは
努力する姿を見せることを恥じなくなったことですかね。大学に入って、自分より圧倒的に才能のある選手とかを何人も見ていて、そこでカッコつけていても勝てないということに気付きました。見えないところでも努力をするし、見えるところでも恥ずかしがらずに努力する、「俺が一番やっているんだ」とアピールするぐらい練習などに取り組まないと、追いつかないなと思いました。そういった気持ちを持つようになったのが4年間で一番変わった点かなと思いますね。

ーご自身の性格を表すとすれば
職人気質で負けず嫌いな性格だと思います。一つのことをとことん突き詰めるし、細部までこだわりを持って自分が納得するまでやり続ける力はあるのかなと思いますね。

ーご自身のプレースタイルの強みは
今まではスピードだったりしましたが、最近は年齢もあってその辺も使えなくなる部分があったりはしますかね。ただ、やっぱり僕の一番の身体的な強みはリーチの長さだと思うので、そこを生かした間合いのコントロールですよね、コントラルアタックだったりとかは他の選手には真似できないものがあるだろうなと思いますね。

ー今後の目標は
もちろん3年後のパリ(五輪)を目指していますし、その中でもトップになりたいので、連覇と二冠ですね。そこを目標に頑張っていきたいですね。
最終的な目標は史上最強のフェンサーになることです。誰も到達したことのない高みに登るというところですね。

ーファンの方に向けてメッセージをお願いします
ファンがいるかどうか怪しいところではありますが(笑)。ほんとうにファンの方のおかげでここまでやってこれることができていますし、今回の東京オリンピックという大舞台を経験してより応援の力、ありがたみを感じました。みなさんの思いや努力の上で成り立っているスポーツなので、僕たち選手もその感謝の気持ちを忘れません。だからこそ、暗いご時世の中ではありますが、スポーツの力でもっともっと明るいニュースを届けたいです。みなさんにも一緒に戦う気持ちを持って応援していただけたらなと思います。

 (取材:五嶋健)

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