【テニス】男子硬式テニス部4年生引退インタビュー

4年生引退特別インタビュー
法政大学多摩キャンパステニスコート・オンライン

昨年、大学テニスを引退した法大硬式テニス部4年生14名。今回は引退特別インタビューと題し、4年間を振り返っていただきました。今回は男子編。(以下、敬称略)中川、佐野、高清水、田中、加藤、岩崎の6選手には多摩キャンパステニスコートで、都合が合わなかった大野、中島、西森の3選手にはオンラインにてお話を伺いました。

中川舜祐(主将・社4)

―まずは4年間お疲れ様でした。活動を終えて率直にいかがですか
4年間を通して振り返るとあっという間でしたね。1年生の時はスポーツ推薦で入ってきたのにも関わらずインカレに行けなくて、リーグでも同期全員で審判をして、大変だけど思い出の詰まった1年でした。2年生になってだんだん結果が出てきた時に、海外遠征にも行かせてもらいましたが、そんな中でコロナ禍になってしまいました。その影響もあって3年生の時は試合も少なく、そういった状況でも勝ちたいという気持ちがあったから4年生になっても頑張れたと思います。4年生ではキャプテンをやっていたこともあって、いろんなプレッシャーがありました。キャプテンを引退してからは、すごく吹っ切れた感じがしました。

―リーグ戦という部としての大一番を終えてから参加したインカレインドアではプレッシャーからも解放されたと
自分では(主将としての)プレッシャーは無いと思っていたんですけど、終わってみたら大変だったなと感じますね。すごく楽になりました。でも楽しかったです。

―キャプテンとしての難しさは
チームをまとめたいと思っていたんですが、結局最後までまとめることはできなかったのかなと思います。チームにはいろんな人がいますが、自分はキャプテンでもあり、エースという立場でもあるので、プレーで引っ張ることができると思っていたんです。そういった意味では、最後まで役割を全うすることができたなと思うんですけど…。インカレが終わって帰ってきてからが、一番大変な時期でした。インカレ前に怪我をして、テニスができなくて、本番1週間前にやっと試合ができる状態になったんです。最後だから結果を残したい、優勝したいと思っていた中で、ベスト16。3年生の時の結果より、単複どちらも一つ下がってしまいました。悔しかったけど、4年間勝てなかった田形(諒平・筑波大)くんに勝つことができて、自分としてはリーグに向けて良い試合ができる自信があったし、もっと練習をして良い形にもっていこうと思っていました。そういった気持ちで帰ってきて練習を見ていると、「何やっているの」と思ったんです。ただ練習をしているだけで、リーグに向けて頑張ろうっていうようには見えなかった。自分とみんなの気持ちにギャップがあったんです。これはヤバイなと。その時はすごくしんどかったですね。自分一人で走っていると感じました。いろんなことを言われているのも分かっていたから、本当に部活に行きたくないと思っていました。後輩がそういう感じだったら、自分も指摘できるし聞いてくれると思うんですけど、本当に難しかったのは同期にはどう言ったらいいかも難しいし、自分の気持ちに応えてくれないこともあったので、しんどかったです。すごく悩みましたね。テニスはやりたいし勝ちたいけど、部活に行きたくなくて。そんな中、岩崎が僕の家に泊まりにきていたんですけど、僕がそう言ってても無視して準備をしているんです。それで時間になったら「行くぞ」と。それが本当に助かりました。自分一人だったら行かなくなっていたかもしれないし、最後までしっかりできなかったと思います。

―法大に入学した経緯は
高3の夏くらいまで、大学でテニスをやるつもりはなかったんです。地元の関西の大学に推薦で入って、サークルでやるくらいでいいと思っていたので、関東に行くつもりもなかったです。ただ、それくらいの時期に自分のテニスが良くなってきたんです。高3の6月くらいに法政の練習に参加させてもらったんですが、法政に入りたいとかではなくて、自分の好きな選手、岡垣(光祐・令2年卒)さんもいるし、自分のレベルを上げたいからという理由でした。しかも後から知ったんですけど、「中川は無いな」と言われていたらしいです(笑)。でも、その後のインターハイで個人、団体の両方でベスト8という結果を残すことができたので、植村監督から声を掛けてもらいました。

―実際に入部してから雰囲気などはどうでしたか
今はほとんど無くなっていますけど、1年生の時はまだいろいろなルールがあったので、仕事はキツかったです。でも、その時の4年生がすごく面白かったし、楽しかったです。テニス面では、高校とは全然違って勝てない時期が続きましたね。

―具体的にどういった部分で違いを感じましたか
ラリーのレベルが一気に上がります。ラリー中にミスをしなかったり、球のレベルも高くて、なかなか本戦に進めなかったですね。

―2年生からはリーグにも出場しました
1年生の1月から3月に考えられないくらい練習をしたんだよね。それから、2月の新進で初めて本戦に勝ち進むことができて自信がついて、その後も春関まで練習を続けたら、ベスト8に入ることができました。その時はすごく楽しかったですね。リーグは結局、僕が大事なところで負けて王座にいけなかったんです。それは悔しかったですけど、テニス自体はすごい楽しかったです。ただ、春関でベスト8に入ってからは、また勝てない時期が続きました。

―海外遠征にも行っていましたよね
海外遠征に行ったのが2年生の2月。結果が出なくなって、それでもめげずに頑張っていたら、12月に秋季リーグの決勝で慶應と対戦して5-0で勝つことができたんです。その時に、監督から「これで安心して(海外遠征に)行かせられるわ」って言われました。海外遠征に行ってからはテニスだけじゃなく、気持ちや考え方も変わりました。海外遠征のことだったらずっと話せるよ(笑)。

―海外遠征では具体的にどういったことに取り組んだのですか
いろんな国でやってるんだけど、俺が行ったのはチュニジアで、ホテルの中にテニスコートがあった。そこで何週間も試合があるんだよね。本当は5週間くらい行く予定だったんだけど、3週間くらいでコロナが広まって試合自体が無くなって帰ってきました。試合を見たり、海外の選手に話しかけて練習したりしながら毎日を過ごしていました。インスタを交換して、英語で「明日あのコートな」ってやり取りして。最初の週は予選で負けたんだよね。自分の武器のフォアで攻めようと思っていたんだけど、それが通じなくて。海外の選手と練習をしていて思ったのが、ネットプレーが大事だなって。僕が現地に到着した日に、その前の週の大会の決勝がやっていたんです。毎朝その人と練習をしていました。練習相手にも恵まれて、一緒に参加した柚木(武・令2年卒)さんだけじゃなくて、いろんな人と練習して刺激をもらえました。2週目はどんどんネットプレーに出たんです。身長が大きい選手と対戦した時は、初めて経験するサーブの角度だった(笑)。そんな相手に対しても前に出たんだけど、ばんばん抜かれて。でも、それはそうだろうなと思ってはいたし、監督もやっぱり前に出た方がいいっていうから、チュニジアではそのネットプレーと、あとはサーブをめちゃめちゃ練習しました。今までは、ストロークの1本目というイメージで、相手を崩せればいいと考えていたんです。ただ向こうではそれじゃ通用しないし、甘くないから、外国の選手を真似してガンガン打っていたら、日本に帰ってきてからみんなに「サーブ早くなったね」って言われました。3週目にはネットプレーも様になってきたから、これを帰ってからもっと練習しようと思いました。チュニジアに行く前は、ネットプレーがほとんど無かったんです。前に出てもポイント取れないし、それなら後ろで粘ろうっていう感じで。でも帰ってきてからは、ガンガン前に出ようと。工夫しながらやっていたら自然にできるようになってきて、3年生のインカレでベスト8という結果を残すことができました。自分のテニスはこれなんだと思いましたね。チュニジア遠征が無かったら、全然勝てていないと思います。いい経験をさせてもらいました。自分のフォアっていう武器をもっと生かすために、前に出て時間を作って攻めようと思うようになりました。

―その後はコロナ禍で大会が中止になってしまいました
せっかくチュニジアに行ったのに帰ってきたら試合が無くて…でもそこで他の人とは違う考え方をしていたかな。部活ができないから滋賀に帰って、トレーナーの安田さんに言われたトレーニングもあったんだけど、この自粛期間は練習場所も無くてみんな動かないから、ここで差が出るなって思ったんです。安田さんに言われたトレーニングだけじゃなくて、自分で2、3カ月続けられるトレーニングを続けようと考えて、ずっとやっていたんです。その時はマジで頑張った(笑)。続けられないようなトレーニングだとダメだから、続けられるトレーニング。坂道ダッシュと縄跳びと、体幹と、いろいろ決めて、気持ちが落とさずに続けられたから強くなれたと思います。

―その後の大会でダブルスは大田空(スポ2)選手と組みはじめました
ダブルスは正直リーグにも出たかったけど、みんなが「中川のダブルスはないでしょ」っていう感じで僕を見ていて。それがすごい嫌だったんだよね。ボレーが苦手で、ミスったらみんな笑うけど、僕としては下手だけど笑うようなボレーじゃないと。練習でみんなのダブルスの様子を見ていても、いけるなと思っていました。後輩からも笑われたりするから悔しくて、頑張ろうって思いました。結果が出たのは(大田)空のおかげだけど、ボレーでも強みを出していけて良かったです。

―大田選手も高校時代に実績もあり、鳴り物入りで入部してきましたよね
空はシングルスで結果を出せると思っていたら出せなくて、せめてダブルスだけは結果を出してほしいなと思っていたので、僕も頑張りました。もともとリーグのダブルスメンバーに僕の名前は無かったんです。僕は田中と組んでいて、空は賀川(稜太・令2年卒)さんと組んでいて、賀川・大田が合わなかったから、賀川・田中になって、中川・大田は余りものなんです(笑)。

―主将を引退してからもインカレインドアに出場していましたが、大会に出場して戦うモチベーションはどこにあったんでしょうか
特に最後だからとは考えなかったかな。まだ実業団でテニスを続けるから、そこに向けて良い通過点になればいいなっていう感じでしたね。今まで積み重ねてきたものを出して、楽しくやろうという感じでした。

―実業団でテニスを続けようという思いはいつ頃からありましたか
実業団にもいろいろあって、僕が行くところはテニスをする環境に恵まれているし、レベルアップできる環境なんです。監督やコーチからは、「伸びしろがあるから続けろ」と言われていたんですが、就活を始めたころは、テニスを続けることはあまり考えていませんでした。テニスよりも仕事をメイン考えていたんですが、怪我もあって、不完全燃焼で終わってしまうんじゃないかと思って、続けたいと考えるようになりました。

―監督やコーチの存在は
監督に対しては愚痴も言っていました(笑)。でも、監督もしっかり聞いてくれるし、他の大学よりも仲は良いと思います。60歳を超えた監督がチュニジアまで来てくださった時は、本当に良い監督だなと思いましたね(笑)。アドバイスもたくさんもらいましたし、一緒に学んで、良い監督だなと思いました。安田さんとはプライベートの話もしていたので、また別の面で支えになりました。絶対いてほしい、貴重な存在です。安田さんには怪我をした時もすごいお世話になって、来年から安田さんがそばにいなくて大丈夫かなって思います(笑)。

―新チームをどうご覧になっていますか
キャプテンの時とは違った目線で見ていて感じるのは、僕の代もこうだったのかもしれないけど、厳しいことを言うと全然ダメだなと思いますね。試合が無いこともあって、雰囲気も緩いし、ただ練習をしているだけだなと思ってしまいます。それは矢島(淳揮・スポ3 ※新主将)にも話しています。2部の大学も強くなってきているので、負けないように頑張ってほしいと思います。しっかり試合を意識して、法政らしく練習からやってくれれば問題ないと思います。

―他大学とは違う法大テニス部の良さは
どの大学よりも楽しくテニスをしていると思います。ただ、最近はその楽しさをはき違えてしまっている部分もあるのかなと。本気でやっているからこその楽しさであって、ただ楽しいだけではダメ。本来のリーグ戦の形を知っているのも矢島の代が最後なので、難しいところですね。僕がいるうちに伝えたいと思います。

―4年間で得たものは
きつかったし、考えたし、キャプテンをやらせてもらいましたけど、正直もうやりたくないなと思います(笑)。自分と違う考えを持った人がいるなというのは、勉強になりました。社会にでたらもっといろんな人がいるでしょうしね。あとはちょっと話すのが上手くなった気がします。高校の時もキャプテンだったし、もともと話すことはできたけど、得意ではなかったので。

―同期に向けて
1年生の時は仕事もあってみんなで頑張ろうという雰囲気だったけど、就活も始まって部活に来れなくなったり、僕としてはチームをまとめていきたいという中で、いろんな考えを持つ同期がいて大変だったんでした。それでも、いつも支えてくれた岩崎とか加藤とかが寄り添ってくれたし、中島、西森、大野も慶應戦の前に「絶対に勝ってきてくれ」と声を掛けてくれたり。最後の最後に、良い同期だなと思いました。明治戦もみんなで応援してくれて、バラバラにならずに終われて良かったなと思います。

(取材・宮川昇)

佐野有佑(副将・経4)

―法政二高に入学した経緯は
形としては顧問推薦です。考えているところは他にもありましたが、交通の面と練習の雰囲気、あとは勉強もきちんとやらなければいけないと両親とも話をしていました。その点で二高が一番勉強もテニスできるすごく良い環境だと思ったので決めました。

―入部当初の法大テニス部の印象は
高校時代から練習や練習試合に参加させていただいてお世話になっていました。当時は仕事の面で厳しいルールが結構ありましたね。今みたいに1年生が仕事もしつつ、楽しそうに練習している雰囲気はほとんどなかったです。ただ、先輩方が試合で結果を出しているところやチームのレベルの高さを目の当たりにして、大変な分、確実に成長できる環境だと思っていました。

―同期に対してはどういった印象を持っていましたか
高校時代に練習試合をしていたので、名前は知っていました。みんな変わっていたり、クセが強い所もありますが、それが面白さでもあると思っています。

―1年生の新進が4年間の飛躍のきっかけになりましたね
この大会で成長を証明することができたと思いますし、その後ダブルスでチームの主戦力になるきっかけになった大会ですね。それまで思うように結果を出せていなかったので、結果を出せて嬉しかったです。テニスで結果を出して先輩方に褒められたのも、あの時が初めてでした。やはり結果を出せると「テニスって楽しいな」と思うし、改めてチームのために結果を出したいという気持ちが強くなりましたね。

―2年生の時を振り返っていかがですか
初めてのインカレ本戦出場を決める試合が不戦勝で、自分たちの力で本戦を決めたわけではありませんでした。全国の名だたる人たちと対戦をして、勝つのは程遠いと感じた大会でもありましたね。勝てるようになってきましたが、より上に行くには足りないところがたくさんあると感じたのをよく覚えています。秋のリーグ戦は鈴木(保貴・令2年卒)・柚木ペアが出る予定だったんですが、2人とも体調を崩してコンディションが悪かったので、自分たちが出場することになりました。思わぬ形で初めての団体戦に出場することになったので緊張もしましたし、不安もいっぱいの状態で試合に臨みました。結果としては早稲田には勝てませんでしたが、他3つの負けられないライバル校には自分たちの強みを出して勝てたので良かったと思います。

―3年生のコロナ禍はどのような年でしたか
コロナが流行りはじめた時は、練習や試合でブランクが出ないようトレーニングに力を入れていました。そして春関はベスト4という結果を出すことができました。あの時は前年のベスト16という記録を大きく超えることができたので本当に嬉しかったですね。ですが、インカレでは思うように勝てずベスト16で終わってしまいました。それでも関東では確実に上位に食い込むことができる力がついていることを証明できたので、成長を実感できたとともに、全国で通用するようなダブルスができるようにあと1年頑張りたいと思った年でした。

―4年生になると就活との両立が大変だったと思いますがいかがでしたか
4年生の春関はお互いに就活が忙しくて、練習ができていなかったので自信はありませんでした。ただ、この大会は良い意味で就活を言い訳にできる大会だったので、めずらしく焦ることなく、楽しみながらプレーができました。2年連続ベスト4という結果は自分の中で大きかったと思っています。最後のインカレは本当に悔しかったですね。春関からインカレまで2人そろって徹底的に練習できなかったので、準備不足もありましたし、気持ち的にも不安でした。泣いても笑っても最後だったのでベスト8以上の結果がほしかったです。リーグ戦のシングルスは出るつもりも、出る可能性も無いと思っていたので、思わぬ形で出させていただいたことに本当に感謝しています。思うようにできなかった慶大戦の経験を生かして、明大戦では自分の良さを出すことができました。高校で結果を出した時くらい良い感覚でとことん攻めるテニスができたことが勝ちに繋がったと思います。本当に最初で最後になりましたが、その1回の勝利はいい思い出になりましたね。

―引退後も夏関にインドアと出場されてましたね
夏関やインドアはどちらも早い段階で負けてしまったので、先輩として後輩を引っ張りきれず、責任を感じています。ただ、楽しかったです。あとは後輩に「佐野さんに出てほしい」と2大会ともダブルスで頼ってもらえたのはすごく嬉しかったですね。この大学4年間でダブルスはとても成長しました。そして最終的にはチームに求められる存在になれて本当に良かったと思います。

―学生大会以外にも精力的に活動していたそうですが
1年目から学生大会以外にも積極的に出ていました。そこで結果を出して日本ランキングを上げていけば、全日本選手権に出ることができるんです。2年目の時は岡垣さんとエントリーして補欠2番目までいきましたが、結果出ることができませんでした。なので3年目は就活が始まるまで、なるべくその大会にたくさん出て全日本出場という目標を達成したかったのですが、コロナで思うようにやれずに終わってしまったので悔しいですね。

―4年間を総括していかがですか
良かった点はダブルスで結果を出せたことです。それが大学4年間の全てだと思うので。心残りはシングルスです。自分は高校までシングルスの方が得意で、結果も出ていたので、大学でももっと上に行きたかったです。結局、シングルスは4年間で本戦に上がることはできたけど結局一回も勝てませんでした。それはメンタルが弱くなったのか、単純に自信がなくなって高校の時みたいにのびのびプレーできなくなったのか。結果が出ないにつれて考えすぎるようになって、今までのようにプレーができなくなってしまいました。そこを克服して、シングルでもインカレに出たかったし、団体戦でも早いうちから単複で出たかったですね。それが4年間の心残りです。

―4年間で一番印象に残っている試合は
シングルスは4年生の対明大戦のリーグ戦、ダブルスは1年生の時の新進ですね。学生大会以外は岡垣さんと組んで出た、賞金総額100万円の大会で優勝したことです。あとは2年の時に国体の代表に選ばれて、本国体にも出られたのもいい思い出ですね。3年生の時も代表に選ばれましたが、コロナで中止になってしまいました。国体は大人の部は地域ごとに予選の枠も決まっており、まず関東予選を勝たなければいけませんでした。何とか勝ち上がって神奈川代表の恥にならないような結果を出せたので良かったです。そして実業団の方と夜も楽しくお話しさせていただいたり、練習もさせていただいたりしたのもいい思い出ですね。

―今後競技は続けますか
続けないですね。本当は続けたかったのですが、コロナで思うようにいかず、最終的にテニスを諦めて、普通に社会人の道に進むことにしました。

―4年間で得たものは
周りをしっかり見れるようになったと思います。副将だったのでみんながどういう練習をしたいか、どう考えているかを常に聞いて、それを取り入れながらより良いチームにしていきたいと思って行動してきました。今までより責任感を強く持てるようになり、周りへの気配りもできるようになったことは、人として成長に繋がったと思います。

―期待する後輩は
全員に期待しています。本当にみんな頑張って練習していますし、馬鹿な後輩もいますが根は真面目なので、いざ練習や大会になると真剣にやっています。特に団体戦にも出て、インカレでも結果を出している淳揮、(佐藤)太耀、空にはさらに良い結果を出してもらいたいです。それを見て予選に上がれなかったり、本戦で勝てなかった選手に「自分たちも負けないように頑張りたい」という思いをもって頑張ってほしいです。本当に陰ながらですが、応援しています。頑張ってください。

(取材・溝口真央)

高清水研人(副将・経4)

―法政大学に入った経緯は
出身高は日大三高で、2年生の時に関東大会でベスト8に入った時に植村監督に声を掛けていただいたことがきっかけです。また3年生の関東ジュニアので熱中症になってしまったんですが、時間を長く使ったり、スライスを使ったりしてギリギリ勝った試合がありました。その様子を見た監督が「勝ちに貪欲だ」と、スポーツ推薦で入りました。

―他大からも声はかかっていましたか
中大と立大からも声をかけていただきました。中央と法政はテニスの強さは似ていますが、中央は寮だったのでそれが少し嫌でした(笑)。立大は1部ではなかったので法政に決めました。

―入部した時の印象は
すぐに辞めたかったです。理不尽なことや厳しいこと、耐え難いことが多くありました。他の部員と違い、自分はそれまで体育会系という感じではなく、環境が緩かったんですよ。自分が想像していたのとは違う環境に圧倒されてしまいました。

―途中でチームの雰囲気が変わったとお聞きしました
自分が2年生から3年生になる時にだんだんチームの雰囲気が良い方向に変わりました。理不尽がなくなったという感じです。今、後輩が練習を笑顔でできるのは僕たちが1年生のときには考えられません。ただルールの部分だけではなく、テニスの面での厳しさも少し緩んでしまったのでそこは良くないと思いますね。

―1年生の時は苦い思い出が多かったと
そうですね(笑)。ですが厳しかったからこその思い出もあります。仕事交代というルールの中に、1年生全員毎日朝練に行かなくてはいけないというものがありました。みんな毎日本当に辛かったので、ある日「もうみんなで怒られよう」とみんなで部室で寝ていたことがありました。結局その日は先輩が来なかったので良かったですが、考えがバラバラな僕たちの代がその時だけはまとまれたので、思い出に残っています。

―初めて同期にあった時の印象は
一番初めは全くわかりませんでした。大野は変なやつだなと思いました(笑)。あと僕はずっと関東にいたので、関西から来た人たちのはっきりとした物言いやノリに馴染めず、動物園に入ったみたいな感覚でした(笑)。

―佐野・高清水ペアで結果が出始めたのは1年生の新進のときからですね
それまでは僕がけがをしていたので、高校3年生から大学1年の夏まで練習が全くできませんでした。なので自分にとって、新進はほとんど初めての大会だというイメージでした。

―結果が出たときの心境は
佐野とペアを組んで結果が出たのが面白かったです。佐野とは同じ神奈川で高校時代はライバルでした。僕がずっとその代の第1シードでしたが、佐野が高校に入る時に栃木から神奈川に来たんですよ。そして佐野に負けてそこからライバル関係だったので、同じ大学でペアを組んで、結果が出た時は感慨深かったです。

―2年生でインカレに出場されました
その時は1回戦敗退でした。インカレ優勝者やインドアベスト4と試合をして、全国の壁は厚いなと感じた瞬間でした。

―インカレ以降はリーグ戦にも多く出場されていました
リーグ戦も慶大戦以外の4試合出場しました。早稲田戦の前に慶應に負けてしまい、「今年も駄目だったか」という雰囲気の中で試合が行われたので、自分もあまり良い試合ができなかったです。メンタルが強くないので、団体戦であるリーグ戦が苦手なのですが、早稲田戦以外は競ってる中で勝ち切れたことがうれしかったです。

―3年生になりインカレでベスト16まで進みました
あの年は僕の調子が良かったので、正直ベスト8まで行きたかったです。僕たちのペアは2人とも調子が良いことがなかなかないんですよ。関東の時は僕が調子悪くて佐野に引っ張ってもらって、全国では佐野の調子が悪かったことに加え、準優勝ペアと当たってしまいベスト16で終わってしまいました。もう少し僕が引っ張ってあげれたらと後悔しています。

―新型コロナウイルスの影響は
僕は気持ち的にはあまり気持ちがまいったりはしませんでした。テニス自体はしたかったですが、部活でやるテニスがあまり好きではなかったんですよ。なのであの時期は電話したり、何人かと会ったりと、やりたいことはできたので悪いことだけではなかったです。

―4年生になり考えていたことは
就活の影響もあり週1回くらいしかテニスをやっていなかったので、インカレに出られればいいなくらいの感覚でやっていました。佐野とは「死ぬ気で1回戦勝とうね」という話をしていて、結果ギリギリで勝ちました。なのでまさかベスト4に入れるとは思わなかったです。あとはインカレの直前まで僕の就活が長引いてしまったので、僕が悪かったと思いますね。テニスに関してはインカレが人生で一番ひどかったので、後悔とかは特にないです。

―リーグ戦は
リーグ戦もその次くらいにひどかったですね。インカレがひどすぎたので、その時点でテニスはやりたいけど戦うスイッチが切れてしまいました。なので最初はリーグ戦に出たくない気持ちでいっぱいで、出ないつもりでしたが、周りの声に押されて出ました。ただスイッチが完全に入りきらなかったので、もっと切り替えることができれば結果も違ったのかなと思います。

―夏関あたりからまた楽しそうに見えました
それは僕も感じていました。インカレがひどすぎて現役では戦う気力がなくなっていました。ですが夏関は一度引退してテニスをやめた状態だったので、勝ちたいというより純粋に楽しみたいという気持ちでプレーしていました。

―インドアは予選に出場されましたね
インドアの前は調子が良かったです。インドアの時はサーブが良くなかったのですが、つかみかけてはいました。インドアが終わった今が実は一番サーブの調子は良いです。インドア予選は高校の同期と当たりました。ですがペアがとても強くマークしていなかった相手にボコボコにされたので、仕方なかったなと思います。ただもう少し練習して僕がきちんとやれば勝てた可能性もあったと思うので、そこは後輩に申し訳なかったです。

―4年間振り返って
今考えると楽しかったと思いますが、もう一回やりたかったかと言われるとやりたくはないです(笑)。今の1年生の環境で入りたかったですね。ですが辛かった1年、2年がなければ体育会と名乗れないような人生だったと思いますし、その体育会の世界を生き抜けたので自信になりました。最初の1年は辞めたいだけで、2年で結果が少し出てでも部活はやめたいと思っていました。3年では一番結果も出たので、少しずつテニスが楽しくなってきましたが、4年生では就活でテニスが苦しくなってしまいました。総括して言うと悔いが残る体育会人生ではあったのですが、それは僕だけではなく、皆そうなのでその経験ができて良かったです。

―4年間で印象に残っている大会は
1年生のときの新進です。けがから復帰してすぐの大会だったので、自分でもだめだなと思っていました。この手首のけがは今でも痛くて結局治らなかったので、自分が一番得意としていたフォアは最後まで戻りませんでした。特に1年の新進の時のフォアは本当にひどくて、「結果が出なかったらテニスをあきらめようかな」と思っていた苦しい時期の中、フォアを使わなくても戦えるダブルスに行きついたんですよ。高校の時はダブルスは全くできませんでしたが、フォアを使わないものを探した結果ダブルスに行きつき、リターンを練習して磨いて、それまで持っていたものをすべて捨てて臨み、勝ったので自分のテニス人生が変わった試合だと感じました。あの試合で勝っていなかったらまったくテニスをやっていないと思いますし、社会人になってまでやっていなかったと思います。

―テニスは今後も続けられますか
僕が入社する会社のテニス部の人はほとんど知り合いなんですよ。そこに呼ばれて受けたこともあるので、そこでテニスは続けます。

―法大で入って得たものは
大学に入るまで僕はエースだったこともあり、自分からガツガツいくタイプでした。高校ではテニスの成績が良かったので、僕のポスターが学校中に貼ってあったりと学年の代表みたいな感じでした。だからこそグイグイ行くタイプで、忍耐力がなく、人間としてまだまだだったと思います。ただ大学は理不尽なことや辛いこと、思うようにいかないことばかりでした。そこから嫌なことがあっても顔に出さないようになったので、人間として成長したと思います。

―同期にメッセージをお願いします
今まで経験したことないくらい面白いやつや、きついやつ、何を考えてるかわからない変なつがいる中、4年間やってきました。同期は僕を成長させてくれた存在だと思っています。成長させてくれてありがとう。

―期待の後輩は
ダブルスは大田空です。今までは個が強い舜祐と組んでいるからこそ、空の良さが生きていたと思います。なので来年のペアが難しいところですね。空は危なっかしい、怖いところもありますが、期待しています。シングルスは佐藤太躍です。良いフォアを持っているし、毎試合気が抜けて危ない展開になることもありますが、昔の舜祐を見ている感覚になります。舜祐のように強い選手になれる才能や力はあると思っているので期待していますね。あと1年生はみんな期待しています。大西(洋平)はダブルスもシングルスもどちらもいけそうですし、真面目なので来年はどちらかは出ると思っています。そして(新井)翼も期待しています。今は結果が出なくてメンタル的な面でも苦しい時期だと思いますが、一番テニスを楽しんでいるのが翼なので、期待というか頑張ってほしいと思っています。

―後輩にメッセージをお願いします
早慶がずっと勝っていますが、そこまで差があるとは思っていないので1年あればひっくり返せると思っています。あと法政は直前になって焦る所があるので、この時期から王座という目標を見据えてやってほしいです。そうすればチャンスもあると思います。実力では相手の方が上かもしれませんが、それだけで勝敗が決まるわけではないので。大番狂わせをして楽しい試合を見せてほしいですし、大番狂わせをした本人が一番楽しいので、僕ができなかった分、成し遂げてほしいです。

(取材・溝口真央)


4年間ペアを組み続けた佐野(右)と高清水

田中諒弥(経4)

―まずは4年間お疲れ様でした。部活を終えて今はどう過ごしていますか
ほとんどテニスはしていなくて、社会人に向けての勉強をしたり、同期と遊んだりしています。現役の時と違ってプレッシャーもなく、すごく楽しいです(笑)。

―現役の時はプレッシャーがあったんですね
ありましたね。特に僕はスポーツ推薦で入学したので、学校に結果で恩返ししないと、という気持ちはありました。

―法政に入学した経緯は
僕の4学年上でキャプテンをやっていた太田悠介さん(平29年卒)という方がいて、同じ静岡出身という繋がりで、僕も高校時代に練習参加をさせていただきました。その時に、法政の『自由を生き抜く実践知』というのを体現しているのがすごいなと思ったんです。他の大学にも行ったんですけど、法政がいちばん学生が部活を盛り上げている感じがして。それに憧れて、早い段階から法政に行くことを決めました。

―実際に入部してみていかがでしたか
もちろん大変な部分もありました。体育会なので上下関係もありますし、自分自身も結果が出せなくて落ち込んだ時もありましたけど、終わってみると全部いい思い出だなと思います。

―先輩の姿を見てどう感じていましたか
いろんな先輩を見てきて、自分が先輩になるにあたって、口だけではいけないと思うようになりました。言うだけではなく、ちゃんと自分も行動することは、上級生になってから意識していました。

―4年間で印象に残っている試合や大会はありますか
ターニングポイントになったのは、3年生の春関ですね。
それまで全然勝てていなかった中で、賀川(稜太・令2年卒)さんとダブルスを組ませていただきました。勝っている先輩と組むことで、自分も頑張らないといけないと思いましたし、テニスだけじゃなくて、気持ちや人柄も学ぶものが多くありました。すごく負けず嫌いで、果敢に戦う姿に、後輩としても負けてられないなと思いました。

―もともとはシングルスとダブルスどちらがメインだったんですか
入学した時はシングルスしか考えていませんでした。シングルスは、高校生の時に東海大会で優勝したり、インターハイもベスト16くらいまでいけたりしていたので、自信があったんです。ただ、いざ大学にきたら勝てなくて、ダブルスでシングルスとは違った観点から楽しみを見出しました。ストローク勝負のシングルスでは勝てない相手に勝てたりとか、大学ではダブルスの方が好きになりましたね。

―高校と大学のテニスの違いは
テニスの質はあまり変わらないと思いますけど、大学では自分の考えを持っている人が勝っていると思います。高校までは監督がいて、やらされる練習が多いじゃないですか。僕自身もそういった練習をしてきましたが、大学では監督やコーチがいない状況で練習することも多い。そうなった時に、自分を客観視する力がすごく大事です。その力がないと大学では勝てないと思います。やらされているだけではダメ。考える力が大学では必要です。

―勉強と部活の両立はどうでしたか
僕はSSI(スポーツ・サイエンス・インスティテュート ※スポーツ推薦入学者向けの授業形態)の授業に助けられていました。授業にもコツコツ出席しながら、単位もそれなりには取れていました。

―3年生になってコロナ禍に突入しました。大会なども中止になりましたが、あの時期をどう捉えていますか
その時期も転機ですね。勝てなくてこれからだ、という時期だったので、何もしないのは良くないなと思っていました。自分に何が必要かを考えて、ランニングや、もともと体が固いので、柔らかくするためにストレッチを毎日するようにしました。

―トレーナーの方に指導を受けながらですか
いや、全部自分でやりました。YouTubeでストレッチの動画を調べたり。

―その後、延期されていた春関が実施された時はどういった気持ちでしたか
勝たないといけない、というプレッシャーもありましたね。もともと1個上の先輩が僕にチャンスや機会を与えてくれていたこともあったので。新進の予選とかも、他にたくさん選手がいる中で出せてもらったり、賀川さんや柚木と組ませてもらったり、先輩方に助けてもらってきたので。

―自分が4年生になった時にはどういった思いがありましたか
王座に行きたい気持ちはすごくありました。強くてチャンスのあった一個上の代のリーグ戦が中止になってしまったので、その思いを背負っている感覚はありました。個人としては就活もあったので、3年生の結果を落とさないようにというイメージでいました。

―就活と部活の両立はどうでしたか
僕はほぼ就活をしていなくて、なんとかなるでしょと、テニス重視の生活で部活に行っていましたね。

―テニス以外で思い出はありますか
いろいろ遊んだので一つ選ぶのは難しいですけど、みんなで行った箱根の漢気ジャンケンの旅は楽しかったですね。コロナ禍になってからは、旅行も難しくなってしまったので、みんなで家に集まって鍋を囲んで食べたりもしました。

―他の大学にない法大の良さは
良くも悪くも全部自分でやらないといけないというのは入部してからずっと感じています。サボることもできる環境で、自分を律して、どういう練習をしたら強くなるかを考えなければいけません。やらされてやる練習ではないので、伸びしろはありますし、高校の時に無名だった選手が上位にいったりするのは法政だからこそだと思います。

―監督やコーチとの距離も近いと感じます
テニス以外のことも話せる存在です。テニスの技術的なことだけではなくて、私生活などの話ができるのも法政の良さだと思います。

―植村監督とは入部前からお話しをされていたと思いますが、印象に残っているエピソードなどはありますか
監督も僕と同じ静岡出身の方なので、僕に期待してくれていた部分もあったと思います。そんな中で、結果が出せない時は厳しいことも言われました。僕に厳しいんですよ(笑)。ウォーミングアップとかで、僕以外の選手がワイワイしていても何も言わないんですけど、僕だけ注意されたり。良くも悪くもやたら気にかけてくれていましたね。それでも3、4年になったらフレンドリーに話してくれて、一番に気にかけてくれているなと感じました。

―4年目を振り返っていかがですか
勝つのって難しいなと思いました。負けて学ぶこともありますけど、体育会の部活動はサークルと違って、勝つことが第一ですし、勝つことこそがテニスの醍醐味。最後の1点、最後の1ゲームを取るのがすごく難しくて。そんな大事な場面で出るのは毎日の練習や取り組み。最後に頼れるのは自分だけです。

―ダブルスでは矢島選手とペアを組みました
僕はあんまり矢島くんと組むつもりはなくて、余ってしまったので組んだ形です(笑)。僕がボレーに出ていくタイプで、矢島くんは後ろで粘るタイプなので、ペア相性的にはあまり良くないと思っていました。でも、性格の面で、誰のミスを一番許せるかを考えた時に、淳揮はガッツがあって落ち込まない性格なので、組んで良かったなと思いました。

―矢島選手は新キャプテンに就任しました
彼からも多くのことを学びました。勝ちにこだわる選手なので、試合や練習に対する姿勢は後輩ですけど見習うところがありました。プレッシャーのかかる立場になりましたけど、あいつなら大丈夫だと思います。キャプテンなんて一人しかできないし、いい経験になるんじゃないかと思います。気負わずに経験を生かしてほしいと思います。

―同期はどういった存在でしたか
9人と人数も多い上に、我が強い奴らばっかりです。いろんな奴がいて、バラバラでちぐはぐで、胸を張って仲が良いとはいえません(笑)。1年生の時は、コミュニケーションも取っていたんですけど、部内の仕事をする中で揉めることもありました。ただ、個性があって楽しい同期だったなと思います。加藤くんとは一緒にいる時間が長かったですね。

―田中選手と同じくテニスで引っ張る立場だった主将の中川選手については
舜祐ですか、なんですかね…僕もですけど、あいつはテニスが大好き、本当に好きなんだなと感じます。負けず嫌いなので、練習から本気で、妥協することがないのですごいです。チームのことを一番考えていたのも彼ですし、僕たちはついていくことが多かったので、チームを引き上げていたのはあいつなのかなと思います。

―卒業後はテニスは続けますか
実業団としての練習とかは無いのでガチンコでテニスをすることはないですけど、個人的に続けようと思います。

―4年間で得られたことは
テニスを続けてきて得られたことしかありません。人の出会いもありましたし、礼儀なども含め、人として大きくなれたと思います。

―最後に、同期に向けてひとことお願いします
これから楽しもうぜ!

(取材・宮川昇)


ダブルスでは新キャプテンの矢島(右)とペアを組んだ田中

加藤季樹(社4・主務)

―法政二高に入学した経緯は
スポーツが加点されてスポーツ推薦という形で入りました。二高のスポーツ推薦は一人一人評定などの基準が違って、僕はそれを満たせたので入りました。

―他の高校は考えなかったのですか
埼玉の立教新座高校が家から近くて、そこに入ろうかなと思っていたんですけど、テニス部があまり強くなくて。部活を頑張りたかったので法政二高一本で、落ちたら考えようという感じです。

―大学でテニスを続けようと思ったきっかけは
最初は続けるつもりはありませんでした。二つ上の兄が法政でテニスサークルに入っていたんですけど、すごく輝いて見えたんです。(サークルに)入ったらヒーローになれると、ずっと兄から言われていたので、サークルに入ろうと思っていました。ただ、大学であまりやりたいことがなくて、同じく二高出身の岩崎と「入るなら入るよ」みたいな感じで、一緒に頑張ろうと2人で入りました。嫌々というのは少しあったんですけど、割とふわっとした感じで入部しました。

―法大テニス部の最初の印象は
二高の時から高校のテニスコートが工事中で使えないときに、よく大学で練習させていただいていたんですけど、やばいなと。僕が高校生の時に練習に行っても、テニスをせずにサッカーや卓球をしていたので、大丈夫かなと思いました。そういうネガティブな印象もあって、少し入りたくないなと思っていました。良い印象ではなかったです。

―その雰囲気が2年生の時に変わったと伺いました
1学年上に岡垣光祐さんという方がいて、その人がすごく優しくて後輩の話を何でも聞いてくれました。「ここ改善しようか」とか「何かあったら言って」とか、本当に良い主将でした。その前の代から少しずつ変わってはいたんですけど、光祐さんのおかげで雰囲気ががらっと変わったかなと思います。すごく優しくて熱くて、今の雰囲気の原点を作った人でした。

―大学1年次を振り返って
部活に行きたくはなかったですね。自転車で来ていたんですけど、自転車を止めるところからもう声が聞こえてきて、そこで行きたくないなと。嫌だなと思いながらも、テニスは頑張ろうと思っていました。ただ、7月から2カ月くらいボールを拾うボールボーイ(ボーラー)をやったんですけど、テニス部なのにテニスができないのが嫌で嫌で。それでも頑張れたのは同期がいたからだと思います。本当に高校とは比にならないくらいきつくて、高3の時の一番上でぶいぶい言えるような感じから一気に変わって、そのギャップも大きかったかなと。1年生の時の悪い思い出が、今となっては良い思い出なのかなと思います。

―試合の成績については
高校の頃はダブルスで勝てて、関東もベスト4、全日本もベスト16くらいまでいきました。大学でもいけると思っていたんですけど、大学生は全員強かったですね。僕は身長が小さいので、パワー負けしてしまって本戦に上がれなかったです。たくさん練習して頑張ったんですけど、2年生の新進の時にダブルスで本戦まであと一歩のところで負けてしまったところで挫折してしまいました。そこからテニスをあまりやらなくなってしまったので、僕のテニス人生の分岐点だったかなと思います。

―一番印象に残っている試合もその試合でしょうか
そうですね。第1セットを取って、あと2ポイントで勝てたんですけど、そこから見事な大逆転をされてしまって。その次の年には就活も控えていたので、テニスのやる気も失せてしまったかなと思います。

―大学卒業後はテニスはやられるのですか
もうテニスはやらないです。趣味としてやるかもしれないですけど、テニスというよりは最近バドミントンをやり始めました。あとはダーツ、ゴルフ、ボウリングなどテニス以外のことをいろいろやってます。ただ2、3年経ったらどうせやりたくなるのかな(笑)。

―いろいろなことに挑戦しているのですね
ゴルフが非常に気持ち良いです。テニスは動いているボールを打ちますが、ゴルフはボールが置いてありますよね。置いてあるボールなんか簡単に打てると思ってたんですけど、全然打てなくて、奥が深いスポーツだなと。まだ4回くらいしかやったことないんですけど(笑)。上手くなるにつれて前に飛ぶ気持ち良さとか分かるので、もっと上手になりたいなと思います。

―3年次を振り返って
春関に向けて頑張っていたんですけど、コロナ禍でコートが閉鎖されてしまって、テニスができなかったんです。家にいるしかなかったので、トレーニング以上に勉強をしていました。就活も始まってSPIとか本を読むようにしていました。

―苦しいという感じはなかったのですか
苦しいというよりは、そのおかげで勉強できるじゃんという少しポジティブな感じでした。

―主務にはいつごろなられたのですか
2年の10月くらいです。

―どういった経緯でなられたのですか
主務の補佐的な役割で副務という役職があって、1年生の時になぜかよく分からないですが任されていました。当時の主務が3年生で引退してしまって、誰がなるかとなった時に僕しかいなくて、じゃあ加藤でみたいな。「はい、やりたいです」とは言っていないです。

―仕事内容は
当時は書類の作成や会計報告など、いわゆるマネージャー的な仕事をやっていました。今はマネージャーが一人いますけど、僕の時はいなかったので全部僕がやっていましたね。合宿で使うホテルを押さえたり、ボールの発注をしたりなど、部を運営する側としての仕事が多くて、そっちの仕事の方が大変でした。

―どういった苦労がありますか
練習できなかったのがつらかったです。莫大な量の仕事があって、練習時間を削ってやらないといけない時期もありました。あと僕は家が遠くてキャンパスから2時間半くらいかかるので、本当に時間がなくて大変でした。

―やっていてよかったことは
色々な経験ができましたね。OBの方など人脈が広がりましたし、会計に関しても数字を一から勉強し始めたりしました。ずっと選手としてやってきたので、選手を支える側を働く前に経験できたのはすごく良かったです。

―同期のみなさんの第一印象は
岩崎と佐野は高校が一緒でしたが、他の同期とは高校生の時の合宿で初めて会いました。舜祐は初対面から自分の意見を言える印象があっていいなと思っていました。高清水は同じ神奈川でスーパーヒーローだったので、「すごい強いやつと仲良くできるじゃん」と思って話したらうるさくて、1言ったら7000で返ってくるみたいな(笑)。ギャップがすごかったです。諒弥は話したことはなかったんですけど、その合宿の時に同じ部屋でした。その時に印象に残っているのが、布団が一個しかなくてどうするってなったんですけど、一緒に寝ようとなって。初対面の日に、小さいシングルの布団に二人で寝たというのは鮮明に覚えています(笑)。優しかった印象はあるんですけど、諒弥はそれですね。大野はすごくクールな印象だったんですけど、4年間過ごしてみるとすごいうるさいやつ。西森は関西人なのですごくノリが良くて話しやすいです。トークも上手くて、すごい頭が良いんだろうなと思っていました。最後が(中島)啓吾はあとから一般で入ってきたので少し遅かったんですけど、同じ埼玉出身でした。独特の雰囲気を持っていて最初は変わってるやつだなと思ったんですけど、今考えるとずっと一緒に帰ってくれて優しいやつだったなと(笑)。今もラインしています。

―今の法大はどのようなチームですか
自由なチームですかね。何でもやっていいし、何でも言い合えるようなチームかなと思います。他の大学だと先輩が主導権を握っていることが多いと思うんですけど、今は矢島を中心に後輩の意見を聞いたり自由に言い合えるチームです。テニスだけではなくて留学なども自由にできますし、みんな優しくてアットホームなチームかなと思います。

―4年間で得たものは
色々な経験ができたことですね。テニス以外でもそうですし、色々なことを学生のうちに経験できたことで人間として一歩成長できたのかなと思います。

―同期のみなさんへ
みんなそれぞれ違う道に進むのでなかなか会えなくなると思うんですけど、たまに連絡を取って遊びに行ければいいなと思います。あと3カ月、学生生活があるので存分に遊んでたくさん思い出を作っていきたいです。

―期待する後輩は
守屋(達貴・人3)です。二高で僕が2年の時に入部してきて、教育係というのが二高にはあるんですが、僕が守屋の教育係でした。ずっと一緒にいてダブルスも組んでいましたし、僕に性格が似ていてすごくかわいがっています。最初はテニスが伸びなかったんですけど、いまはダブルスのエースとして頑張っているので。就活もありますが本当に器用な子なので、守屋らしく頑張ってほしいです。

―後輩にメッセージをお願いします
テニスをすることも大事ですけど、テニスだけじゃないということが4年間で分かりました。結果が出なくても、留学など色々な経験をするのが多分大学生のいいところだと思うのでテニスに縛られず、挫折したときに他の道もあるということは忘れないでほしいです。あとはなかなか部活入っているとできないですけど、時間を作ってたくさん遊んでいい女の子見つけて、彼女作れよと。彼女できれば成績も上がっていく可能性もあるので(笑)。

(取材・溝口真央)

岩崎敬一(社4・学連)

―まずは4年間お疲れ様でした。率直に部活終えてどう感じていますか
ずっとテニスやってきたので、今は目標が無くなって物足りなさを感じています。

―テニスを始めたきっかけは
父がテニスをやっていて、それが楽しいなと思って始めました。中学もテニス部がある法政二中を受験して、それからずっとやってきました。

―法大テニス部に入った経緯は
法政二高からそのまま法政に進学して、ただ最初はあまりやる気は無かったんです。合宿に行ったのですが、とても僕のレベルでは及ばないと感じて。でも4年間、何をやっていくのかって考えたときに、今までやってきたテニスを続けることを目標に入ろうかなと思いました。

―入部してくじけそうになったことなどはありましたか
入部した当時は上下関係が厳しかったので、4年生に怒られないようにノリをよく振る舞っていたら、坊主になったことが一度ありました。そういった洗礼を受けたんですけど、そこで負けたらいけないなと思って、そういう嫌なことを反骨精神に頑張っていました。

―学連としても活動されていますが、競技とのバランスはどう取っていましたか
弱いやつが学連をやる、という風習が上の先輩の時代からあって、学連だったらお前はそっちに専念してくれという感じでした。自分はテニスで周りの誰からも期待をされていなかったんですけど、今までの学連よりも結果を残そうと思っていました。最初は大会運営とかに興味がなくて、やらされてる感じでしたが、学連にいないと分からないことをたくさん学べた貴重な場でした。

―テニスは大会運営が大変な競技ですよね
普通の大会でもたくさんの選手がいて、その人をどういう会場で振り分けるのか、当日になったら天候に左右されることもあります。あとは、どうコロナ対策をするのかを考えました。他の部員を陰から支えられたかなと思います。

―同じく学連として活動する後輩とはどういったコミュニケーションを取っていますか
あまり学年は関係なく、新進、春関、夏関、リーグ戦と4つ大会のトップを任されるようになるんです。僕は夏のトップをやる予定だったのですが、コロナで中止になってしまって。だいたい同じ大学同士で引き継ぎをするんですけど、僕はやっていなかったので、後輩には「やらなくてもいいよ」と言ったんですが、進んでリーグ戦の運営をやってくれて、とても嬉しかったです。

―プレーヤーとしては4年間をどう振り返りますか
テニスは楽しいですが、最後まで目立った結果を出せなかったですね。中学も高校も団体戦を重きにするチームにいたので、出場する選手を近くで支えるような位置にいることが多かったです。中学では試合に出ていましたけど、高校からはそうでしたね。大学でも主将の舜祐や、みんなを支えられるように、近くにいることができたらなという気持ちでいました。

―中川選手が近くにいてくれて助かったと話していました。主将として奮闘する彼の姿を間近でどう見ていましたか
同期は個性が強いので、上級生になった時に、王座優勝という一つの目標に向かえない時期もありました。後輩たちにもいろんなことを聞きながら部の指針を立てていくのはとても大変なことだと間近に見て感じました。そういった時に支えるのが、同期だと思うんですが、その同期がバラバラになっていたので…自分が結果を残してチームを作っていく、彼のやり方で進めている中で、何も言わず側にいました。何も言えなかったですよ。本当に彼の存在がなければ、ここまで来ることはできなかったと思います。

―法大テニス部の良さは
チャレンジャー精神なのか、よく分からない強さがありますよね(笑)。常に勝ち気で明るく楽しくテニスをやれるチームで、その中にも一人一人に理想のテニスがあって。やるところはやって、楽しいところは楽しむ、カッコいいチームでした。

―卒業後テニスは続けますか
僕は企業にテニス部がないので、競技としてはちょうどここで区切りですね。

―4年間で得られたものは
仲間ですね。社会に出ても目標のためにみんなと協力するのが大切だと思っていて、部活もその延長戦上にあると思っています。何かあったときに相談したり、遊びに行ったり、学連でもコミュニケーションの場が広がりました。

―最後に、同期に向けて一言お願いします
個性が強くて、最後までまとまりがなくて、それでも最後は今まで部活に対して前向きじゃなかった同期が「部活って楽しいな」って言ってくれて、みんな根はハートフルなやつだと思っています。最悪だけど、最高な同期でした。

(取材・宮川昇)

大野文也(スポ4)&中島啓吾(現福4)&西森渉馬(スポ4)

―法大に入学したきっかけは
西森:監督に声をかけていただいて、AO入試で入りました。
大野:僕はテニスの推薦で入りました。最初は1部の大学に入りたいなと思っていて、いろんな大学を見ている中で法政は自由で、寮とかじゃなくて1人暮らしができるっていう理由で選びました。
中島:僕は一般入試で法政に入りました。テニスサークルも考えたんですけど、やっぱりテニス部はレベルが高くていいなと思ってテニス部に入りました。

―1年生の時はどうでしたか
中島:たくさん怒られました(笑)。
大野:色々怒られて、反省文を何千字も書かされてましたね(笑)。

―競技に関しては
大野:やっぱり試合では負けることのほうが多くて、大学生って強いな感じたのを覚えています。

―2年生になってからはいかがでしたか
西森:まだ心からテニスを楽しめていなかったです。練習にはいきますけど、環境に不満はありましたね。
大野:たしかに気を遣っていました。競技でいうと決して勝てたわけではないんですけど、本選とかは出てました。2年生になっても1年生の時と同様に仕事があったので、それが大変でしたね。

―3年生になり上級生になってからは
大野:3年生になってからは、1個上の先輩たちとも仲良くさせてもらっていたので、テニスを楽しめるようになりました。
西森:仕事もなくなって自由にできるようになったので、テニスのモチベーションがある人はさらにどんどん頑張って、そうじゃない人は楽しくテニスしようみたいな感じになって顕著に分かれていった時期なのかなと思います。
中島:ここぐらいからなにしても許されるようになりました(笑)。

―4年目を振り返っていかがですか
大野:あっという間だったなと思います。3年生の時からコロナが流行り出して、試合が全然なくなってしまいまいた。あまり試合をする機会もなく、いつの間にか終わってたって感じでした。今年は3年生の時よりは試合はあったんですけど、結果も残したわけでもなかったので。「あ~終わっちゃたな」という感じでした。
西森:メンバーじゃなかったんですけど、リーグに向けて時間がある中で、もめたり怒られたりもしたんですけど、特にこの3人で仲良くできてよかったと思います。
中島:早く引退したいっていう思いと、それでもちょっと部活に顔を出さないといけないっていう思いが葛藤しあってました。テニス部のメンバーはみんな好きだったので、部活に行って後輩とかと楽しくおしゃべりしてました。

―来年のチームに向けて
大野:キャプテンの矢島君はぐんぐん伸びてきていますし、試合で活躍している人たちがチームを引っ張ってほしいなと思います。王座を目指すとなると大変だと思うんですけど、矢島君は真面目なのできっとうまくいくんじゃないかなと思います
西森:矢島君率いる今のチームなら王座優勝に達成できると思うので、さらに上に目指して頑張ってほしいと思います。
中島:3年生にテニスを教えたことがあるわけではないんですけど、今のチームの雰囲気はすごくいいなと思うのでこのままでいってほしいです。あとは3年生はもう少しふざけたらもっと心にゆとりが出るよって思います(笑)。

―同期に向けて
大野:みんながみんな仲がいいとは言い切れない学年ではあったと思うんですけど、喧嘩もしたけど4年間実際やってこれて今振り返ると楽しかった思い出が多いなと思います。
西森:4年間楽しく過ごせることができました。男気旅行のためにお金を溜めといてください(笑)。迷惑はかけたけどこのメンバーで良かったなと思います。
中島:僕もたくさんみんなに迷惑をかけていろいろあったけれど、充実した4年間を過ごせて感謝しかないです。ありがとうございました。

(取材・鳥越花音)

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